1804、岸和田散策 no.5 光明寺、天性寺、梅渓寺

By | 2019年4月15日
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続いて、文字通り散策というか、一応何かあるらしそうなとこを歩く。光明寺、

>開基不明。現在地に元亀2(1571)年寺堂を中興しました。かつては岸和田城伝馬口門と西大手門を固める要衝を占めていました。
城の周辺に寺院が多く配置されているのは、合戦時、寺を陣屋にしたり、墓石を盾代わりに利用するなど、軍事的な意図も含まれていました。

お寺には、立派なソテツがあることがままあるが、ここのソテツの立派さはかなりのもん。

続いて、天性寺、この寺は結構面白くて、

>天正年間(1573~86)、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ、落城寸前でした。
その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救いました。
その数日後、城の堀から矢傷・玉傷を無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められました。
文禄年間(1592~96)からは、天性寺内にある日本一大きな地蔵堂に移され、今に至っています。
境内には一切蛸を食べずに願をかける、風変わりな蛸絵馬が無数に奉納されています。
また、参道入口左側の石標「たこちそう」の字は、江戸時代の書の大家・池大雅の書であると伝えられています。

いろんな伝説を聞いてきたが、地蔵が法師の姿で蛸に乗り、蛸と一緒に戦い、
戦国でも勇壮で名を馳せている雑賀衆を追い払った、というのはなかなかの逸話である。
ちなみに最寄り駅は蛸地蔵駅、地元では当たり前の話の模様。

それから、梅渓寺、

>曹洞宗永平寺の末寺で、慶長5(1600)年清頓和尚により草創開山、小出秀政により建立されました。
その後、岡部宣勝が高槻から岸和田に移封した際、生母の位碑『洞仙院殿梅渓宗考大姉』を栃木の大中寺から転置、その墓碑を建立しました。
寺名もこの戒名からつけられました。

そんなわけで寺は豊富。

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