2144、四国散策 no.78 ふなやの庭、朝散歩

By | 2020年3月28日
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2017/12/15(金)、めずらしく、せっかくなので、宿ふなやの庭などを散歩する、

めずらしくというか、改めて庭を散歩する時間を取るほどの庭のある宿に泊まる機会など滅多にないということなんだろうが、

多くの著名人が泊った宿なので、逸話なども多々あり、

>漱石とふなや
「 はじめてのふなや泊りをしぐれけり 」
明治28年(1895年)、夏目漱石が松山中学校の英語教師として赴任中、かねてから楽しみにしていた鮒屋旅館(現在のふなや)に宿泊しました。
その喜びを素直に表現した句です。
その後、漱石と高浜虚子は鮒屋旅館でビフテキを食べました。

>その時の模様は虚子の「漱石氏と私」に描かれています。
この三十年の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋(ふなや)で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下もとにあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。
白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。
私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛かみこなして大概嚥下してしまった。
高浜虚子 「漱石氏と私」

>子規とふなや
「 亭ところ々渓に橋ある紅葉哉 」
明治28年(1895年)、病気のために松山に帰郷した正岡子規は、親友であった夏目漱石の下宿で静養することになります。
そして、明治28年(1895年)10月6日、子規が漱石と散策の折に花月亭(現在のふなや詠風庭)近辺で詠んだのが、この句です。
ふなやではこの句を頂戴し、詠風庭を見下ろしながら本館と南館をつなぐ渡り廊下を、もみじ橋と命名しました。

>虚子とふなや
「 ふるさとに花の山あり温泉あり 」
高浜虚子は明治より度々ふなやに来館しています。
昭和18年(1943年)3月26日、太平洋戦争中に松山に帰郷した虚子が、ふなやに泊まった際に詠んだ句です。
戦時中ではありましたが、ふるさとに帰ったことの喜びが伝わってくる句です。

>山頭火とふなや
「 朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし 」「 ほんにあたゝかく人も旅もお正月 」
「朝湯~」は、種田山頭火にとって残された贅沢の一つと書き残しており、温泉につかる心地よさが伝わってきます。
「ほんに~」は、昭和14年(1939年)に来松して初めての正月を詠んだ句です。
旅の終着地となった「一草庵」で、たくさんの人のぬくもりに包まれていたのでしょう。

>渋沢栄一のふなや宿泊
新紙幣一万円札の肖像画に採用された渋沢栄一氏。ふなやに宿泊された折の逸話をご紹介します。

>初めての愛媛で鮒屋旅館に宿泊
大正4年(1915年)9月29日 75歳の渋沢栄一は、第一銀行広島及び熊本支店開設披露その他のため、東京を発し、神戸・松山・広島・熊本に赴き、帰途大阪・京都に立寄り、10月11日に帰京しました。
宇和島出身の実業家山下亀三郎(やました・かめさぶろう、1867-1944)からの懇請を受け、初めて愛媛を訪れました。

>9月30日夕刻、松山に到着した栄一は官民合同歓迎会に出席して鮒屋旅館(現在のふなや)に投宿。依頼を受けたのか、宿では入浴後も深夜まで揮毫(きごう)しました。
この際、ふなやにも、自身と関係が深い養蚕に関する漢詩の書を残しております。

>翌10月1日、栄一は8時40分に宿を発ち、道後公園を経て松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高校)に赴きました。同校では図書室を一覧、記念植樹を行い、校庭で生徒に対して訓話をしました。

そんなわけで、この立派な庭は、
>詠風庭(えいふうてい)
園内に自然の川が流れる
1,500坪の広大な自然庭園。
そこには約200種類の植物が生育し、
四季折々の姿をお楽しみいただけます。
古より多くの方に愛されてきたこの庭園は、
今も昔も変わらぬ情趣を留め、
心癒される空間となっています。

引用終わり、
でした。

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