Author Archives: なおみ

3475、松本散策 no.18 松代大本営跡

この度の最後、松代大本営跡

>松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている。

>太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、大日本帝国陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し、海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

>そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局の設置が予定され、舞鶴山(当時は狼烟山と呼ばれていた)地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られた。 戦争直後の新聞報道によれば、舞鶴山の建物は鉄筋コンクリート3棟からなり約600坪。廊下は地下壕へ連なっており、屋根は山に続き上空からは隠蔽された構造であった。建物は現在も残っており、限定ながらも一般公開されている。

引用終わり、

私、この時代の歴史ってのにはまったく疎く、存在を全然知らなかったのだけど、
なるほど、戦争ってのは物凄いエネルギーを使うものなのだなという、ほんのちょっとの一旦なわけだが、
思ったのでした。
特段面白いものがあるわけではないけれど、見られるところから想像されるその広さにある種の感動を覚え、
行ってよかったと強く思う。

3474、松本散策 no.17 山寺常山邸

続いて、山寺常山邸

>山寺家は松代藩の中級武士でした。江戸時代末期には山寺常山を輩出し鎌原桐山、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。 常山は松代藩八代藩主真田幸貫の信望も厚く藩政にも尽力し寺社奉行、郡奉行を務めたほか藩士に兵学を教授し政務を補佐しました。

>明治以降は中央政府の招きを固辞し藩に留まり、晩年は長野に塾を開き教育につとめました。
山寺常山邸には江戸時代末期から明治初期に建てられたと推定される表門と、大正時代末期から昭和初期に建てられたと推定される書院(対竹廬[たいちくろ])が残されています。表門は長屋門形式で、全幅約22mと松代城下に残る門のなかでは最大です。書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性が見られます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。

ということで、山寺常山、という方がいらしたそうな。速攻で忘れそうだけんども。

ところで、なんとはない用水に、立派な鯉がいる。さすがに野生ではなさそう。

3473、松本散策 no.16 象山神社(ぞうざんじんじゃ)

続いて、象山神社(ぞうざんじんじゃ)、

>象山神社(ぞうざんじんじゃ)は、長野県長野市松代町にある神社。幕末の松代藩士で思想家の佐久間象山を祀る。本殿等は登録有形文化財で、園池は登録記念物。

1913年(大正2年)の象山殉難五十年祭を機に、地元松代町出身の大審院長・横田秀雄を中心に神社建立が計画され、1938年(昭和13年)に創建された。社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が松代町内や京都から移築されている。なお、佐久間象山の名は一般的には「しょうざん」と読まれるが、地元長野県では「ぞうざん」と呼び習わされている。神社の名もこれに習い「ぞうざんじんじゃ」と読む。

引用終わり、

そんなわけで、しょうざんではなく、ぞうざん、知らなんだ。

3472、松本散策 no.15 松代城

続いて、松代城、

>松代城(まつしろじょう)は、信濃国埴科郡海津(現・長野県長野市松代町松代)にあった日本の城跡である。

>元々は「海津城」(かいづじょう)とよく呼ばれていたが、「貝津城」とも言われた。また「茅津城」(かやつじょう)とも言われ、茅の生い茂った地であったと伝える説もある。

>城の形式は輪郭式平城。

>国の史跡に指定されている。

>なお、越後国頚城郡にある松代城の読みは、「まつだい」である。

>海津城の正確な築城時期は不明である。

>戦国期、甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、着実に領土を併合して北へ目指していく途中、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)と北信・川中島地域で軍事衝突した。

>この武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。

>この時、千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備された。

あまり期待していたわけではなかったのだけど、結構ちゃんと城でした。

3470、松本散策 no.13 川中島古戦場

続いて、川中島古戦場、

>川中島古戦場(かわなかじまこせんじょう)は、長野県長野市小島田町にある、越後:上杉政虎対甲斐:武田晴信軍による川中島の戦い・第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。

>川中島古戦場とはいえ、この地で戦闘があった訳ではなく、武田軍が勝鬨を上げたとされる八幡社境内と、討ち取った敵将兵の首実見を行ったとされ、周辺の広い田畑の中に残されていた首塚や「三太刀七太刀跡」の石碑(大正期に建造)が散在していた。

引用終わり、

ということで、まあ、それっぽいところと、それっぽいものがあるところ。

3468、松本散策 no.11 荒砥城(あらとじょう)

2021/05/03(月)、荒砥城(あらとじょう)へ

>荒砥城(あらとじょう)は、信濃国更級郡新砥(現・長野県千曲市上山田)にあった日本の城。山城。別名、新砥城。

>山田氏が居城としていたことから「山田城」とする説もある。山城として復元されたのは全国2例目。千曲市指定史跡となっている。

>この地の豪族で村上氏の一族の山田氏の居城であった。村上氏の本城、葛尾城の支城としての役割を果たしていた。

>天文22年(1553年)には武田信玄配下の真田幸綱の調略で屋代氏が寝返ったことにより村上義清が守備した葛尾城が落城したため、武田氏に従った屋代政国にそれまでの屋代城の替え地として、荒砥城を与えられ屋代城から移った。

>天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後、屋代秀正は上杉氏に従い海津城の副将として遇された。

>しかし主将の山浦景国(村上義清の息子)とはしっくり行かなかったようである。

>村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。

>天正12年(1584年)4月1日、秀正は徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ、荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となる。

>荒砥城は以降、廃城となった。

>しかし屋代氏出奔後の領地の一部は景勝の人質となっていた真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされている。

残念ながらほとんど再現。
だけんどもまあ雰囲気は。