Author Archives: なおみ

4010、北海道散策 no.36 まとめ

ということで、8/21(日)-26(金)、5泊6日、北海道散策なんて書いてと今更思うけど、
札幌には寄らず、千歳から旭川、美瑛、小樽、積丹と、まあ、北海道の5分の1だか20分の1だかってとこでしょうか。
いずれにしろ、さすがに懐深くある程度精度も高く、混みすぎず、うるさ過ぎず、高すぎず、
景色もよく、料理もよく、人も温和で、いいところではありますよね、住もうとは思わないけど。

4009、北海道散策 no.35 サケのふるさと 千歳水族館(さけのふるさと ちとせすいぞくかん)

空港の方へ向かいつつ、最終目的地、サケのふるさと 千歳水族館(さけのふるさと ちとせすいぞくかん)、

>サケのふるさと 千歳水族館(さけのふるさと ちとせすいぞくかん)は、北海道千歳市にある水族館。道の駅サーモンパーク千歳の敷地内にあり、淡水では日本国内最大級となる水槽や、日本国内初となる川(千歳川)の水中を直接見ることのできる「水中観察室」があり、サケや北方圏の様々な淡水魚の生態や千歳川の生き物を観察することができる。施設そばの千歳川には捕魚車(インディアン水車)があり、サケ・マスの増殖事業に用いる親魚を捕獲するために設置している。電力を使用せず純粋に水力のみで回っている捕魚車は北海道内唯一であり、設置期間である8月中旬から12月上旬の期間に遡上するサケの群れや捕魚車によるサケの捕獲風景は、千歳市の秋の風物詩となっている。1888年、サケ・マス孵化場が千歳川に設置された当初は、周辺には捕魚車が先にあり、戦後に市街地開発が進んでいくと見物客が増えてきた。1979年(昭和54年)に千歳市は「サーモンパーク基本構想」を策定、1994年(平成6年)に千歳サケのふるさと館が開館して施設そばに捕魚車を設置、2004年(平成16年)に道の駅登録となった。2015年(平成27年)、工事期間中の休館を経て道の駅施設と同時期にリニューアルオープンした。

引用終わり、

もちろん、わざわざ行くほどではないものの、まあ、ちゃんと楽しめた。
実際の川を横から見られる場所があるのだけど、遡上している時ならどんな風に見えるのだろうと。

4007、北海道散策 no.33 日本銀行旧小樽支店金融資料館(にっぽんぎんこうきゅうおたるしてんきんゆうしりょうかん、英字表記:The Bank of Japan Otaru Museum)

小樽市内を散策、日本銀行旧小樽支店金融資料館(にっぽんぎんこうきゅうおたるしてんきんゆうしりょうかん、英字表記:The Bank of Japan Otaru Museum)、

>日本銀行旧小樽支店金融資料館(にっぽんぎんこうきゅうおたるしてんきんゆうしりょうかん、英字表記:The Bank of Japan Otaru Museum)は、北海道小樽市にある資料館。元は日本銀行の小樽支店として機能していた建物であり、2003年から日本銀行の広報施設として再オープンした。建物は現在、小樽市指定文化財に指定されている。入場料無料。所在地は北海道小樽市色内1丁目11番16号。1900年前後、当時商業を中心に発展する小樽市に各銀行が集中し、市内で徐々に完成していった銀行街は次第に「北のウォール街」と呼ばれるようになった。その中で日本銀行も小樽市に参入、東京駅の設計者としても知られる辰野金吾や長野宇平治、岡田信一郎らが建物の設計を担当し、1912年(大正元年)に竣工した。建物は積み上げた煉瓦の上にモルタルを塗った造りの2階建てで、ルネサンス様式が取り入れられている。さらに屋根には八幡製鉄所製の鉄骨が使用されており、小樽市内を眺めることのできる東側の塔にはイギリス製のらせん階段が取り付けられた。総工費は当時の金額で40万円に上り、これは日本銀行本店と日本銀行大阪支店に次いで3番目に高額な建設費だったという。2002年9月13日をもって小樽支店の営業は終了し、札幌支店に統合された。その後、改築工事が行われ、2003年5月14日に新しく金融資料館として開館。館内に歴史をはじめとする金融資料を展示するなど、日本銀行の広報施設として機能する建造物となった。開館以降、2006年時点で25万人を超える来場者を記録、2006年2月10日には冬季の開館時間を30分延長し、現在の開館時間となった。

引用終わり、
札幌からそんなに遠いわけでもないのに、日銀の支店があったというのだから、
それはそれは栄えていあたのであるな。
今もまあ、観光地としては十分いけてるんだろうけど、にしんをなくしてしばらく、
それ以外は事実上何もないってことなんだな、おそらく。

4004、北海道散策 no.30 食堂うしお 3.57、個人3.4

これは順番が前後しているな、うに丼を食べたのは朝食で、その後しばらくしてランチをし、それから海岸などを見て回ったらしい。
食堂うしお 3.57、個人3.4、
かむい丼3,000円生うに・いくら・かにののった北海道満喫丼!
浜丼700円いか・えび・ほたてを卵とじにした丼!
子供たちは、このたまごとじ丼を結構食べていたと思われる写真。

4002、北海道散策 no.28 神威岬(かむいみさき)

続いて、神威岬(かむいみさき)、

>神威岬(かむいみさき)は、北海道積丹郡積丹町大字神岬町にある岬。積丹半島北西部から日本海に突き出している。ニセコ積丹小樽海岸国定公園に属している。積丹半島の突端部。1980年代以降は観光地として整備され、岬の付け根にある駐車場から先端部までの尾根沿いを通る徒歩20分から30分ほどの遊歩道「チャレンカの道」(770m、強風時は立入禁止)が整備されている。遊歩道の高台からは、左手には起伏に富む神威岬の景観が、右手には海岸線沿いに屹立する岩塊「水無しの立岩」と石狩湾、さらに湾を挟んだ先に暑寒別岳など石狩山塊が望める。先端部は稜線がそのまま海へ落ち込む断崖絶壁になっており、400メートル沖には神威岩という高さ41メートルの岩礁がある。遊歩道最先端付近からは周囲300度が見渡せ、水平線が丸みを帯びて見える。積丹半島は、北海道で唯一の海中公園に指定されているが、その海の青さは「シャコタンブルー」と表現されることもある。貴重な動植物の宝庫であり、夏にはエゾカンゾウが咲き乱れ、冬期にはオオワシやオジロワシも見られる。神威(カムイ)とはアイヌ語で「神」を意味する。古くは御冠岬・オカムイ岬(ともに「おかむいみさき」と読む)とも呼ばれた。神威岬沖は海難事故につながる暗礁が多く、「魔の海」とも呼ばれ海上交通の難所として知られていた。『積丹町史』によると、和人女性を載せた船が神威岬沖を通れば海神の怒りを招き船が遭難し、漁業も不振となると伝承され、江戸時代に蝦夷地(北海道)を支配する松前藩は1691年(元禄4年)から、神威岬より奥への和人女性の立ち入りを禁止(女人禁制)していた。伝説によれば、奥州衣川を脱出した源義経が蝦夷地に逃れた折、日高地方のアイヌ首長の娘・チャレンカと恋仲になった。だが野望を捨てきれない義経は彼女を捨ててさらに北へと向かい、大陸へと渡った。義経一行を慕い、この岬までたどり着いたチャレンカであったが真相を知って絶望し、海に身投げした。彼女の怨念の化身こそが神威岩だ、との言い伝えがある。チャレンカが今わの際に「婦女を載せた船がここを過ぐれば覆没せん」と叫んだことから、「和人の女がこの付近に近づけば、チャレンカの怒りに触れて祟られる」として岬一帯が女人禁制の地になったとされる。もっとも実際には、和人が岬から奥地へ定住することで、ニシン漁を始めとした権益を損なうことを恐れた松前藩による規制と考えられている。現地の民衆が信じていたタブーを松前藩が利用したとも推測されている。神威岬以北へニシン漁出稼ぎ(ヤン衆)に赴いた夫や恋人を案じる女性の心情を詠いこんだ歌詞が北海道民謡「江差追分」にあるほか、小樽市の「オタモイ地蔵尊」には、「ある女性が漁場にいる恋人に会いたいあまり、北前船の船底に隠れ密航を企んだ。だがその船は神威岬で嵐に巻き込まれてしまう。船員らが狼狽する中、彼女は『自分が乗ったせいで、神を怒らせた』と責任を感じ、海に身を投げた。彼女の遺体は現在の小樽市・オタモイ海岸に漂着し、憐れんだ住民らが地蔵を建立した」との伝承がある。幕末、江戸幕府は蝦夷地を直轄地化し、1855年(安政2年)に女人禁制を解いた。箱館奉行所役人の梨本弥五郎は蝦夷地北端の宗谷へ赴任するため妻を帯同して神威岬沖を通過した。その際、「征夷大将軍徳川家定の家来として君命で通るのに、どうして神罰を受けねばならぬのか」と叫び、岬へ向けて一発の銃弾を放った。これが迷信打破のきっかけとなり、以後は岬の北側でも女性の定住が進んだ。また、日露戦争時にはロシア艦隊の来襲に備えて監視所が設けられていた。

引用終わり、

なるほどの積丹ブルーであり、たしかに、草木が豊富、そんで風がまあ強かった。
義経の伝承やら、松前藩のタブー利用やら面白いなと、引用が長くなりました。