Author Archives: なおみ

2743、せとうちグルメフェス

国立科学博物館を出ると、上野公園でせとうちグルメフェスなどをやっていまして、ってことは、まだコロナ自粛ははじまっていなかったのか、

広島汁なし担担麺が、

通常のものとどう違うのは知らんが、

見た目はあれだけど、牡蠣鍋やね、
これは寒い中には絶品。

2742、国立科学博物館

2021/01/11(土)、友人たちと、実家と、新年会に合わせ、上京。
いつもは、埼玉スタジアムの高校サッカーを観に行っていたのだけど、コロナでやっていなかったのかな?

もうすぐ2歳の長男、どこまで面白がれるかと、国立科学博物館。

630円の入場料の割には、当たり前だけど、かなりボリューミーでありまして、
時間の都合もあり、また、いつでも来られるだろうと、半分ほどで後にする。

2741、高松散策 no.19 八栗寺(やくりじ)

この旅行最後の観光スポットは、八栗寺(やくりじ)

ケーブルに乗りまして、

>四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。

>寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。

>空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。

>五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので、「八国寺」ともいわれた。

>唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みるため、植えておいた焼き栗八つがみな成長し繁殖しているのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。

>天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1593-96年)に無辺上人が本堂を再建した。

>さらに寛永19年(1642年)高松藩主松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊とし観自在院と称するようになる。

>なお棟札によると二天門と本堂は三代藩主松平頼豊が宝永6年(1709年)再建とあるが、宝永3年(1706年)五剣山のうち東峰が崩壊する大地震が影響していると思われる。

>歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。

>ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。

引用終わり、

ケーブルカーで行くだけありまして、見晴らしもよく、結構なところでありました。

そして、高松散策終わり、高松よいとこ、一度はおいで。

2740、高松散策 no.18 うどん本陣 山田家 讃岐本店 (やまだや) 3.72、個人3.6

帰路、うどん本陣 山田家 讃岐本店 (やまだや)、3.72、個人3.6

ぶっかけうどん350円

上定食1,500円うどん(釜あげうどん又はざるうどん)+天ぷら+寿司+しょうゆ豆

一つ確かなことは、私が今まで行ったうどん屋の中では、一番広い店でありまして、
>席数、300席
そして、
登録有形文化財

まあ、そんなこともあり、激込みで、結構待ちましたが、さすがに美味しいうどんであったのはたしかなんだが、
大阪在住、結構美味しいうどんは、食べてきましたので、3.6どまり。
まあ、山田うどん、だしな。

2739、高松散策 no.17、栗林公園(りつりんこうえん)、文化財庭園では、国内最大の広さ

2020/01/04(土)、栗林公園(りつりんこうえん)、

>栗林公園(りつりんこうえん)、は、香川県高松市に所在し、国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園(日本庭園)である。

>県立の都市公園(歴史公園)として運営されている

>紫雲山の東麓に所在し、紫雲山を背景に、6つの池と13の築山を配し、400年近い歴史を有する大名庭園である。

>すぐれた地割と石組を有し、木石の雅趣に富んでいるとされている。

>面積は約75haで文化財庭園では、国内最大の広さである。

>文化財庭園としてのカエデ・ツツジ・約1000本の手入れマツなどに加え、都市公園としてのウメ・サクラ・ハス・ショウブ・ハギなどが創出する四季折々の景観は、「一歩一景」とされている。

>本園は、南庭と北庭で構成される。

>南庭は江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝える。

>北庭は檜御殿が建ち鴨場であったが、大正時代初期に近代庭園のスタイルを取り入れた宮内省の市川之雄の設計で改修の後、一部を改変して今日に至る。

>本園の前身の「栗林荘」は、高松藩主の松平家11代の国もとの下屋敷として、228年間使用された。

>1745年(延享2年)第5代藩主頼恭が「名所60景」を撰名し、作庭が完成したとされる。

>「名所60景」は、南庭に46景と北庭に4景の、50景が現存する。

>南庭の「小普陀」の石組は、室町時代の作庭とされている。

>江戸時代初期に讃岐国を治めた生駒氏の分限帳で、「栗林」の呼称が確認できる。

>大名庭園としての本格的な整備は、生駒氏の改易後の、高松藩初代藩主の松平頼重の入部以降とされている。

>第3代藩主頼豊は御殿や茶屋などを充実させた。

>第5代藩主頼恭は薬園を設ける等、作庭に努めた。平賀源内は初代薬園頭として2年間勤める。

>第2代藩主頼常は泉の池の浚渫を行い、近辺数か村の灌漑用水に使用した。

>園内には3種類の気象庁の標本木がある。

>北梅林のウメ・讃岐民芸館前のサクラ(ソメイヨシノ)・楓岸のカエデである。

>高松地方気象台の「開花・満開・紅葉」の宣言は、これらの標本木に基づく。

>栗林公園には様々な大きな池があり、庭園部分の約2割を占めていて、これらは互いにつながっている。

>水源は紫雲山の地下水も多少あるが、おもに公園の南東隅にある「吹上」(ふきあげ)と呼ばれる場所で湧き出ていて、短く浅い小川となって池にそそいでいる。

>高松市のおもな河川である香東川は現在紫雲山の西を流れているが、往時この川の本流は紫雲山の東の栗林公園のある場所から中央通り(国道11号・国道32号)を通り、玉藻公園(高松城址)の脇で瀬戸内海へそそいでいて、江戸時代の改築で本流を現在のように変えたあとも、伏流水が栗林公園で湧き出ている。

>現在は近くにある二つの井戸の水も使われているとも、往時はこの水源の小川で「曲水の宴」を行なったともいわれる。

>江戸時代の1600年代初め、生駒氏の家臣であった佐藤道益の居宅の作庭が本園の始まりとされている。

>この頃の香東川は紫雲山を挟んで東西二筋の流れであったが、生駒氏の姻戚の藤堂氏(津藩主)のもとから派遣された西嶋八兵衛の治水工事で東側の流れが堰き止められ、西側の流れ一本に改変された。

>川の跡地は豊富な伏流水を持つ広い土地になり、庭園となる条件が整った。この時代に生駒氏の家臣の屋敷地から、後の庭園につながる整備がされたとされている。

>生駒氏は改易により出羽国由利郡矢島へ移付となる。

>1642年(寛永19年)5月、初めて入国した高松藩初代藩主の松平頼重は、7月に栗林の地を訪れ検分する。

>頼重は隠居に当たって栗林荘に御殿を建て居住する。

>第2代藩主頼常は、飢饉対策の救済事業として、被害に遭った人々を栗林荘の作庭に雇い、庭園を拡張した。

>この頃、南庭・北庭を備えた庭園となる。

>第3代藩主頼豊は、在国時は居所を高松城から栗林荘にするほど愛好し、庭内の整備を一層すすめた。

>第5代藩主頼恭も薬園を設ける等作庭に力を入れ、1745年(延享2年)に「名所60景」を撰名した。

>栗林荘の完成を区切るとすれば、現在に通じる景観が形成された、頼重着任後約100年のこの時代である。

>その後、高松藩松平家の国もとの下屋敷として幕末まで経営された。

>明治維新を経たのち、1871年(明治4年)廃藩置県により「栗林荘」の敷地は官収された。

>その後県に払い下げられ、大名の占有であった「栗林荘」は1875年(明治8年)3月、「栗林公園」として開園され、一般に開放された。

>しかし、香川県は合併・分離を繰り返し、手入れが行き届かず各種の問題が発生した時代があった。

>1899年(明治32年)香川県博物館(商工奨励館)が開館し、図書閲覧所が同館内に併設された。

>1903年(明治36年)の皇太子(後の大正天皇)行啓も、園内整備の契機となる。

>1913年(大正2年)に完成した北庭の改修は、運動場や遊戯場と複数の観覧施設を新設し、博物館の周囲も近代庭園に整備された。

>1930年(昭和5年)に動物園が開園、同8年に動物園にプールが併設された。

>太平洋戦争後の1949年(昭和24年)に高松美術館、1965年(昭和40年)に讃岐民芸館が開館した。

>その後、運動場と遊戯場は撤去して整備され、美術館跡に鴨場(鴨引き堀)を復元、動物園とプール跡に駐車場・栗林庵(かがわ物産館)・便益施設等が新設された。

引用終わり、

さすがに、

立派でありました。

オリーブサイダーを飲み次へ、

2737、高松散策 no.15 一鶴 高松店 (いっかく)3.58、個人3.4

1/3なのと、まだ15時過ぎということで、選択肢がありまなく、丸亀の本店にも行ったけど、一鶴 高松店 (いっかく)3.58、個人3.4
写真は帰りに撮影したものなので、すでに行列、

もつ煮付け433円?ここは、サイドメニューが冷製ばかりなのよね、レンチンしてくれるだけでもいいのにというものが多い、

おやどり、1,062円、

ひなどり、941円、
逆かもしれない。

まあ、美味しいんだろうけど、しょっぱいのよね、結局。

2736、高松散策 no.14 高松城 no.3 近世城郭の海城としては、最初で最大

>高松城(たかまつじょう)は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。

>別名・玉藻城(たまもじょう)。

>国の史跡に指定されている。

>別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。

>高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。

>現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。

>近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。

>本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。

>その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。

>現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。

>1587年(天正15年) – 生駒親正が讃岐国12万6千200石(のち高直しで17万6千石)の大名に封ぜられ引田城に入城するが、手狭であったので同年中に聖通寺城に移る。

>1588年(天正16年) – 聖通寺城でも不便を感じたため、香東郡篦原庄玉藻浦(現高松市玉藻町)に築城を開始する。

>1590年(天正18年) – 高松城完成。

>1869年(明治2年) – 版籍奉還に伴い廃城となる。

>1884年(明治17年) – 老朽化のため天守が破却される。

>現在、高松市立玉藻公園として有料で開放されている。

>天守は現存せず、重要文化財には月見櫓、艮櫓(丑寅櫓、うしとらやぐら)、水手御門(みずのてごもん)、渡櫓が指定されており、毎週日曜日、月見櫓と渡櫓の中が一般公開されている。

>また、城内にある桜の馬場は桜の名所として知られ、春になると多くの花見客が訪れる。

>高松市街中心部北辺に位置し、北側にフェリー乗り場など港湾施設、西側にJR高松駅、東側に香川県民ホール・香川県歴史博物館、南側には高松高等裁判所・西日本放送などがある。

>天守の復元計画は1980年代半ばに、高松市が市議会の意を受け天守閣の復元に動き、外観姿図を含む構想を策定し、文化庁に提出したが、審議の対象にすらしてもらえなかった。

>1996年にも史跡高松城跡保存整備計画としてまとめたが結果は同じで認めらなかった。

>2003年には香川証券の平井二郎会長は、高松市にある出版社の文教社の協力を得て、天守の資料を作成し、地元経済人らに働き掛け、「玉藻城再建の会」(仮称)の設立準備を進めた。

>当時、平井会長は、資料が乏しいといっても小倉城(北九州市)を参考に建てられたとされ、同じ津山城、岩国城(山口県岩国市)の絵図などが参考になるはずとして、復元より再建と持論し、「史実にすべて沿った『復元』は不可能。ならば、現実に即した夢の城に『再建』を」。木造による本格的復元にこだわるべきではないとし「市民が気軽に上がれる城でなければ。エレベーターを付けるなどバリアフリーへの対応も必要」と訴えていた。

>文化庁は文化財保護の立場で史跡での復元の基準を1967年以降厳しくしており、資料不足を理由に外観だけの復元は認めないと拒否して来た。

>2003年夏、この地区が国の構造改革特区に申請されたことで、それまで「資料が写真一枚しかない」ことを理由に復元の拒否をしてきたとみられた文化庁が復元に対する考えを軟化させたため、その後、高松市は整備検討委員会を設置し、2010年の着工を目指して準備を進めていたが着工には至っていない。

引用終わり、
天守閣が復元されることを願う。

2735、親になる no.243、はじめての幼稚園公開

2021/11/15(月)、長男、はじめての幼稚園公開、でありました。
いわゆる、我々には授業参観日、という言葉が馴染みがあるけど、幼稚園公開、と呼ぶ模様。
10:40-11:10、コロナの影響で、3グループにわけ、三日間にわたり行う。
基本的に一学期に一度あるんだが、一学期は中止でありました。

遊び、片付け、トイレに行き、弁当を出し、食べはじめる、まで、
30分でそこまで出来る?という内容でありますが、
親は、園児を手伝ったり、声をかけたりせず、廊下で見ておくというもの。

ところで、長男、数日前から咳が酷い状況が続いておりまして、
今日は幼稚園は欠席でありますので、
はじめての幼稚園公開は、参加できなかったのでした。

2734、高松散策 no.13 高松城 no.2 月見櫓

続いて、月見櫓、

>月見櫓は北之丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓です。古文書の記載から、1676年(延宝4年)に上棟したと考えられます。

>月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられました。

>建物の構造は総塗籠造りの3重3階・入母屋造・本瓦葺きで、初重には切妻破風が見られ、その下部に石落としが設けられています。二重には唐破風と屋根の形を対象させています。

>内部には中心の4本の柱が2階部分で継ぎ足しながら3階天井まで延びています。また、南面には続櫓と呼ばれる小規模な平櫓が付属しています。

>水手御門(みずてごもん)は月見櫓の南に位置し、西面した薬医門です。

>月見櫓と同時期に建築されたと考えられていますが、解体修理に伴う調査によって地下から古い礎石が発見されており、幕末頃に建替えられたと推定されます。

>海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけました。

>渡櫓は、水手御門の南に位置する総塗籠の平櫓です。

>南側3間分は北之丸の新造前に所在した海手門の部材が再利用されており、柱が細く、内壁も波型真壁となっています。

>また、城外側は大壁、城内側は真壁となっており、3種類の壁構造が見られる特徴があります。

>梁の継手の下面に「延寳四年卯二月十日井上氏□□」とあることから、この渡櫓も月見櫓と同時期に建築されたと考えられています。

>内部には非常に珍しい波型壁、外部には石垣の継ぎ足し部分があり、生駒家から松平家へ引継がれた歴史を物語る。

>この渡櫓は日曜日にかぎって内部を見学することができます(9時〜12時、13時〜15時)。

>高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏(いこまし)の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島(やしま)1万石(秋田県由利郡矢島町)に移封されました。

>その後、寛永19年(1642年)松平賴重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みずじろ)の一つに数えられています。

>月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代賴常(よりつね)公の時代に、完成されたものです。

>ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。

>かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
 

>月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに粱をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。

>これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。

引用終わり、ホントに、すぐ海なのよね。