道後公園、湯築城跡から、
おそらくものの3分もかかっていない登りなんだけど、
ここまで景色が広がる、
城ってのはそういうとこにあるんだなぁ、
くだり、なんかのイベントをしていまして、
なんだろうなぁ、
続いて、近所にある神社、
の、境内なんだろうけど、何処だろう、
改めて、坂の多い街だが、
だから坂の上の雲、なのか?
こっちは宝厳寺、
12月の日は落ちるのが早い、
これもそれをなんて書けば正しいのかわからんのだが、
最近階段を右足で一段、左足で一段、と一歩ずつ上がることが2割くらいの確率で起きる。
もちろん、階段のピッチとか彼の気分次第のようなんだが。
今までは、右足で上がって、左足を同じ段に乗り、
また右足で次の段、としてたのが、という意味ね。
さすがに東京は大阪に比べ、フリーWIFIが結構あるなぁ。
地下鉄、私鉄、バス停、チェーンのカフェなんかも店の外で使えてしまうではないか。
さりとて歩きながらってわけにもいかないので、
結局ある程度使おうと思ったら立ち止まらないといけないんだが。
それはさておき、たくさんあると逆に困るのが、
以前使ったWIFIを拾いに行くので、こっちは4Gのつもりなのに、
繋がらないじゃん、ってことが結構ない?
そのたび、WIFI切る、みたいな。。
博物館も道後公園と隣接してました、道後公園を散策、
と同時に、湯築城跡でもあり、
湯築城資料館もある、
>道後公園(どうごこうえん)は、愛媛県松山市道後町にある湯築城跡とその周辺からなる愛媛県立の都市公園(総合公園)である。
>公園内の丘陵の上の湯築城跡は、現在展望台となっている。
>桜の名所で、花見の時期は大勢の観光客で賑わう。
>道後公園の桜は、松山地方気象台が標本木に指定しており、桜前線の目安とされている。
>また、外堀と土塁は現在も残っている。
>湯築城を築いた河野氏は、風早郡河野郷を本拠としていた一族。
>源平合戦で源氏方についた河野通信が鎌倉幕府の御家人として伊予国を任された通盛の時(1335年前後)、温泉郡湯築へと本拠を移し築いた城が湯築城。
>戦国期の1535年(天文4)に河野通直(弾正少弼)が二重の堀と土塁を巡らして現在の形を完成させた。
>1585年(天正13)最後の当主通直(牛福丸)は豊臣秀吉の四国攻めによって小早川隆景に降伏し、400年に渡った河野氏の伊予支配は終わりとなった。
>湯築城は、その後福島正則が城主となったが、正則が国分山城に居城を移したのを受けて廃城となった。
>なお、1602年(慶長7)加藤嘉明の松山城築城にともない湯築城の資材などが再利用されたという。
また、鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたる。
引用終わり。
宿を出て近くを散策、
湯神社という、そのままの名前の神社、
>「誉田別命(ほんだわけのみこと)」、「大己貴命」(おおなむちのみこと)」、「大国主命(おおなむちのみこと)」、「少名彦命(すくなひこのみこと)」、「大山祇命(おおやまつみのみこと) 」の4人の神様たちを合祀した、由緒正しき神社。
2009年秋には385年ぶりの改築が終わり、以前とはまた異なった表情を見せている。
2010年元旦より、神様にちなんだ“縁結び”、 “招福開運”、“合格祈願”の3種類の絵馬が湯郷温泉青年部によって作られ、人気を呼んでいる。
それぞれの絵馬はこの湯神社ではもちろん、湯郷温泉の各宿泊施設でも販売され、ここに奉納することとなっている。
続いて、子規記念博物館、
>松山市立子規記念博物館は、正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとに松山や文学について親しみ、理解をふかめていただくために開設された文学系の博物館です。
市民の知的レクリエーションや学校の課外学習の場、研究者の研究機関、観光客のビジターセンターとして親しまれています。
漱石はともかく、子規については正直、あまり知らんなということでありました、
>芭薫や古今和歌集についての自説を展開して、それらの全国的な再評価を喚起した。
ということなんだけど、あまり琴線に触れず。
1週間の四国旅行のうち、基本はビジネスホテルだけど、
数か所素敵なところにしようというコンセプトだったのだろう、
今宵の宿は、道後温泉 ふなや、なもんで14時過ぎにチェックイン、
まあ、本当は高いんだけど、マタニティプランってのがあって、安かったんだと、今言われた。
>古から受け継がれる伝統と
>モダンな感覚との融合
約三千年の歴史を持ち、日本三古湯の一つとも言われる道後温泉。
鮒屋旅館(現在の「ふなや」)はその道後の地に、江戸時代寛永年間(1627年頃)に開業しました。
以来三百九十余年、幾多の人々の旅の宿として愛され続けています。
伝統を大切にし格式を活かしながらも、良いものであれば新しいものも積極的に取り入れ、お客様をおもてなす。
それがふなやの心です。
引用終わり、
天皇皇后両陛下をはじめ、皇族の方、
渋沢栄一、新渡戸稲造などなど、著名な方多数宿泊、
なもんだけど、覚えてないんだよなぁ、
この後料理の写真が出てくるだろうから、思い出すだろうか。
トンネルを抜け、道を渡って、石手寺奥ノ院、
後ろを振り返ると、この施設とは関係なそうだが、でかい大仏、
>石手寺の歴史・由来
>日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
>そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。
>まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。
>重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。
>縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。
>翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
>「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
>鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。
>境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。
>石手寺の見どころ
訶梨帝母天堂・落書き堂・洗い石(門前にある別名「渡らずの橋」。裏側に経文が刻まれている。)・阿弥陀堂(二王門を入り左側。ぼけ防止の祈願者が多く参拝する。)
引用終わり、
こちらが国宝の二王門、
結構いいお寺でした。
ここ3日くらい、アンパンマン、と言い出した。
まあ、アンパンマンというよりは、あーぱーわん、くらい?
別にアンパンマンを積極的に見せたことはなく、
むしろ、ワンワンの方がよく観ているし、さらに言いやすいと思うんだが、
ワンワンは言わない。
何が違うのかわからんが、アンパンマンに反応し、
今となっては粗い映像だなぁと思いつつ、
息子は関係なく観ている。
そして、ありがちだけど、親は早々に、可愛いのは最初だけで、
アンパンマンと連呼されるもんだから、アンパンマンが嫌いになってきそうな雰囲気。