2022/11/23(水・祝)、近所家族ランチ、寿限無 担々麺 3.56、個人3.3、
たしか天気が悪くて、近場でさくっと入ったのだった気がする。
評価ほどではないものの、まあまあ。
Author Archives: なおみ
4129、掲載保留 中華料理 福 3.37、個人2.5
2022/11/22(火)、休前日、近所家族ディナー、掲載保留 中華料理 福 3.37、個人2.5、
別の似たような店舗が入っているので、正しく閉店してます。
町中華ではなく、どうでもいい、清潔感のない大雑把な中華。
4128、麺屋 宮本 3.49、個人3.5
2022/11/20(日)、朝方近くの公園で、長男の自転車の練習をしている写真、
その後の流れは知らんけど、清澄白河の駅前でランチ、麺屋 宮本 3.49、個人3.5、
普通に美味しかった様子。
清澄公園で遊ぶ理由があったのか、深川手前にある、コーナンに行きたかったのか、はたまた?
4127、人形町串屋 あげとん 3.09、個人3.3
地元に戻り、近所一人ディナー?人形町串屋 あげとん 3.09、個人3.3、
行った日付を間違えてるのか?
まあ、立ち飲みの常連多めな店でした。
4126、相方の実家の墓参り
長野県佐久市に行ったわけだが、小諸城やらなんやらもあったものの、
そもそも、相方の実家の墓参りをしたことがなく、なんとなくついでに行けるなら行っておこうかと企画したところがあり。
私が行きたいというよりも、子供たちを行かせておいた方がよかろうという思いが強かったか。
いずれにしろ、知らんけど、存命だった相方の両親に的に、相方的に悪いことはなかったと思われるが、
そのことは意図していなく、なんだろう、どこでもいく、やったことないことする、の延長。
世の人々は、配偶者の実家の墓参りとかするんかね?
4125、そばダイニング 上仲屋 3.50、個人3.5
ランチ、そばダイニング 上仲屋 3.50、個人3.5、
駅前にある、観光客もウェルカム系雰囲気の店だけど、蕎麦の質はそござんした。
4124、小諸市児童遊園地
同じく敷地内、小諸市児童遊園地、
>長野県小諸市にある小諸城址懐古園の敷地内に、小さなお子さんも楽しめる乗り物が揃う、小諸市児童遊園地があります。スタッフさんはご年配の方が多く、いつも優しく対応して下さり、温かみのあるレトロさが魅力の遊園地です。
動物園も、遊園地も、城だから、子供たちよ、興味ないかもしれないけど付き合え、という親の気持ちと別にあると、
付き合った子供もまあまあ、よかったになるから、こことか、小田原城とか、あるんだなと。
4123、小諸市動物園(こもろしどうぶつえん)
敷地内、小諸市動物園(こもろしどうぶつえん)、
>小諸市動物園(こもろしどうぶつえん)は、長野県小諸市にある市立の動物園である。小諸城址懐古園内にある。設立は1926年(大正15年)と長野県最古で、1882年(明治15年)の上野動物園(東京)、1915年(大正4年)の大阪市天王寺動物園(大阪)、1918年(大正7年)の東山動物園(名古屋)、1919年(大正8年)の遊亀公園附属動物園(甲府)などに次ぎ、小規模ながら非常に古い歴史のある動物園である。当初は日本ザル1種の飼育であったが、現在は86種余りの飼育を行っている。新しく整備された「崖上のペンギン村」ではペンギンの泳ぐ姿を観察できる
再整備のため2020年(令和2年)9月より断続的に休園していたが、2022年(令和4年)4月29日にリニューアルオープンした。「崖上のペンギン村」としてペンギン舎を整備し、フンボルトペンギンが泳ぐ姿をアクリルガラス越しに観察できるようになり、ペンギン舎に石積みを設けて自然に近い成育環境が整えられた。またモルモット舎、パンダマウス舎、およびこれらとのふれあい体験スペース、休憩スペースを一体とした屋舎を新設した。
主な動物
テナガザル、イグアナ、ムーアモンキー、ライオン、ヤクシカ、ポニー
引用終わり、
へぇ、ライオンいるんだぁ。
ペンギンも元気よく泳いでいる姿が横から見られる作り。
いずれにしろすいているのは結構なこと。
4122、小諸城(こもろじょう)
2022/11/19(土)、この日は、小諸城(こもろじょう)へ、
>小諸城(こもろじょう)は、 長野県小諸市(旧・信濃国佐久郡(のち北佐久郡)小諸[注 1])にある日本の城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。長享元年(1487年)に大井光忠によって築城されたと考えられている。戦国時代、武田信玄の東信州経営のために現在の縄張りとされた。現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修された。現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるもので、三重天守もその頃に建てられたものであった[2]。天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたが寛永3年(1626年)に落雷によって焼失している。城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある。また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。天文23年(1554年)に竣工する。小諸城主は武田家の親族衆である武田信豊であるとする説があるが、黒田基樹は信豊が小諸城主であったことを示す確実な記録はないことを指摘している。勝頼期には御一門衆の下曾根浄喜が城代を務めており、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り首を織田信長に進上したが、浄喜も誅殺されたという。武田氏が滅んだ後に上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家臣の滝川一益が領し、城代は道家正栄が務める。天正10年6月2日の本能寺の変により相模国の後北条氏が上野へ侵攻し、6月19日に一益は後北条氏との神流川の戦いで敗退する。敗走した一益は箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を経て碓氷峠を越え、6月21日に小諸城へ入城する。6月21日には佐久郡の国衆・依田信蕃が小諸城において一益と面会し、一益は木曽郡の木曾義昌とも交渉し、6月27日に小諸城を退去して佐久・木曽両郡を通過して本国の伊勢国長島へ帰還した。これにより小諸城主は依田信蕃となる。後に徳川氏に引き渡された。その後小田原征伐後に依田氏が徳川氏に従って関東地方に移ると、代わって小田原征伐での功労が認められ5万石で再び大名に列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城した。秀久は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その後も元和8年(1622年)に2代忠政が上田城へ転封となるまで居城した。江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代康済の時に明治を迎えた。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(28番)に選定された。
引用終わり、
信玄、勘助、仙石秀久、信長、滝川一益等々、戦国好きには気になる名前がかなり出てくるけど、
行ったのははじめてだったのか、というか今思い出すことが出来ん。
4121、晴れたらいいね 個人3.3
この日の宿、晴れたらいいね 個人3.3、
名前はどうなんだということだけど、絵にかいたような家族でやってます、という雰囲気と作りで、
外は子供たちが遊べる遊具っぽいのが結構あるんだけど、夕方遅いのと、寒すぎて遊ぶ気にはなれず。
全体的に、悪くはなかったんだけど、覚えていないという方が正確。
