Author Archives: なおみ

3690、こども遊園地

公園内の、こども遊園地

>城址公園内には、天守閣などの史跡のほか、こども遊園地があります。
こども遊園地には豆汽車やバッテリーカーなどの遊具があり、小さいお子さまに人気の施設です。

まあ、それなりの施設。子供的には断然あった方がいい。
ところで、小田原城には、昔来た時象がいたな、という記憶があったのだけど、
だいぶ前に他界してまして、記憶はあっていた。

3689、本丸茶屋 3.29、個人3.2

小田原なので、移動すれば、いくらでもそれなりの店はあるのだろうけど、
面倒が先立ち、小田原城址内、本丸茶屋 3.29、個人3.2、
小田原戦国武将丼やら、天使の海老のメニューやら、その手の場所にある店の割に頑張ってはいるものの、
そこまでの質にはなっていず。

3688、小田原城址公園

2021/12/17(金)、計画休を通り、小田原城散策、湯河原宿泊、まずは、小田原城址公園、

>小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。北条氏の本拠地として有名である。城跡は国の史跡に指定されている。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。

引用終わり、
そんなわけで、お邪魔したのは、小田原城の一部でしかない、小田原城址公園、
なんだか、結構昔行って、象がいた記憶だけあったのだけど、
記憶は間違いではなく、だいぶ前に他界してました。
天守閣も内部も、地方の小ぶりな城に比べればまあまあ充実していたかと。

3687、掲載保留 東京カレースタンド ハトノモリ 日本橋高島屋S.C. (HATONOMORI) 3.64、個人3.2

2021/12/15(水)、勤務先近所ランチ、掲載保留 東京カレースタンド ハトノモリ 日本橋高島屋S.C. (HATONOMORI) 3.64、個人3.2、
ついこの間も、そこにそれっぽいカレー屋があったのを目撃したのだけど、違う店になっていたのねと。
本格的な頑張っているカレーが必ずしも日本人のというか、私の口に合うかというと、
結構外れもありますね、のパターン。
しかも百貨店の地下なら、もう少しわかりやすい味というか、単に口当たりのいい味にすればいいのにと。

3685、荒川自然公園(あらかわしぜんこうえん)

続いて徒歩にて移動、荒川自然公園(あらかわしぜんこうえん)、

>当公園は東京都下水道局三河島水再生センターの施設の上に新たに人工地盤を造ってそのスペースに造られた公園である。こうして出来た公園は都内では新宿区の落合水再生センターの上に造られた落合中央公園(1964年開園)に次いで2例目である。1974年開園で、面積は61,068.03m²。
公園は大きく3つのブロックに分ける事ができ、人工的な池があり樹木などが多く植えられた南側地区、野球場やテニスコートなどがある中央地区、そして子供が交通ルールを学ぶために造られた交通園などがある北側地区である。南側地区と中央地区との間は連絡橋を渡る。(中央地区と北側地区は隣接している。)

引用終わり、

こちらはネームバリューの通り、広さも施設も豊富、うちの子供たちが好きな交通公園設備もアイテム種類豊富な方。
大き目な遊具もあり、自然も豊富。
さすがなレベル、なんだが、わざわざ行くほどかは。

3684、天王公園

この日の目的地、天王公園、

>天王公園は千住大橋のほど近く、江戸時代に武家屋敷があったその跡地にあります。
桜やけやきなどの樹木も多いので、暑い日でも木陰で気持ちよく過ごせます。

引用終わり、
区の説明がなんとも淡白でありますが、実際は結構長めのローラー滑り台があるのと、
夏には高低差のある広めの滝みたいなのもあるじゃぶじゃぶ池もあり、
ネームバリューの割には使えそうな公園でありました。