利用していたホテルが、決して悪いわけではないのだけど、とにかく近くに飲食店がありませんで、
飲酒を我慢し、車で夕食を食べてから戻らないと行けないのでした、
飛騨牛一頭家 馬喰一代 岐阜神田 3.67、個人3.6
低温調理ってやつの刺身?
キレイなタン、
カルビ?
値段もちゃんとだけど、評価通りいいお肉でした。
続いて、横蔵寺(よこくらじ)、
>横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
>三重塔 檜皮葺。寛文3年(1663年)完成。岐阜県指定重要文化財
>西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。平安時代 – 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、草創や沿革については史料が乏しく、平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、史実として信じることはできないが、当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
>多くの文化財を有する寺として知られるとともに、「ミイラのある寺」として知られている。舎利堂に安置される「舎利仏(即身仏)」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。
引用終わり、
建物の色褪せ具合といい苔といい、なんとも物悲しく、落ち着いた、雰囲気のよいお寺であります。
続いて、奥の細道むすびの地記念館
>大垣は、岐阜県の西部、西美濃の中心に位置しています。江戸時代の大垣は、東西交通の要所として、また、東西文化の接点として、経済・文化が発展した地でした。元禄2年(1689)の秋には、松尾芭蕉が「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下り、約5か月間の『奥の細道』の旅を終えています。
芭蕉は『奥の細道』の旅を大垣でむすびましたが、はじめて大垣を訪れたのは、『野ざらし紀行』の旅の途中、貞享元年(1684)9月下旬のことです。目的は以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。このとき、木因宅に1か月ほど滞在し、木因の仲立ちで大垣の俳人たちが新たな門人になりました。
芭蕉が門人に宛てた手紙によれば、『奥の細道』の旅のむすびの地は、旅立つ前から大垣と決めていたことが伺えます。芭蕉が大垣を旅のむすびの地とした背景には、早くから自分の俳風を受け入れた親しい友人や門人たちの存在があったのです。
引用終わり、
そもそも奥の細道についての知識がほぼありませんで、大垣がそういう地であったことをこの時初めて知ったわけですが、
これを書いた今日までそのことを忘れていまして、今初めて知った感覚でありますから、
また速攻で忘れ、また知った時には初めて知った感覚になるのでしょう。
駅前でランチ、さらしな 3.41、個人3.2
>飛騨牛 牛めし膳1,130円
自家製ざるそばのだしで仕上げたそば屋ならではの味わい。あっさりで甘すぎず、濃い味が苦手という方にもこれならイケる!やわらかく食べやすい飛騨牛はご年配の方や女性にも好評。ビジネスマンのリピーターも。がっつり食べたい方には大盛あり(1290円)井戸水で炊いたご飯は、岐阜県美濃だけでとれるお米「はつしも」。大根おろしとうずら卵を甘辛のお肉にからめてどうぞ!第3回大垣めし準グランプリ受賞メニュー。
>※大垣名水 飛騨牛 水そば(一升枡)1,580円
大垣は枡の生産日本一!こんこんと湧き水が出る井戸枡をヒノキの枡でイメージした一品。冷たい井戸水を張り見た目涼やかな手打ちそば。オリジナルの「大垣城」の1升枡でお楽しみください。細く長く長寿を願うそばで縁起よく〼〼(枡枡)福が訪れますように!人気の飛騨牛と自家製みそだれやっこ(大垣の豆腐)付。
引用終わり、
いろいろ頑張っているのはたしかながら、そこまで味がついてきているかというと。
というか、地方にもいい蕎麦屋はあるわけだが、ここは駅前の蕎麦屋であります。
続いて、大垣城(おおがきじょう)、
>大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。
>宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。
>宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。
>戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭としての整備された。
>伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されている。
>1649年(慶安2年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。
>1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。
ところが、あがるところでしょうか。
2023/08/01(日)、まずは、墨俣城(すのまたじょう)
>墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城である。
>築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。
>斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。
>また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。
>信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。
>秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない。
>現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられているが、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。
>実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。
>また、公園内にある白鬚神社(の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
ということで、墨俣一夜城は嘘。
続いて、
>崇福寺(そうふくじ)は、岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は神護山。織田信長、有栖川宮家ゆかりの寺院である。本尊は延命地蔵菩薩、聖観音。美濃三十三観音霊場第十四番札所。
>伝承によれば、鎌倉時代に創建。荒廃していたのを1511年(永正8年)に斉藤利匡の手で移転整備。1517年(永正14年)に改称したという。
>別の説としては、1469年(文明元年)に、土岐成頼と斎藤長弘が建立し、1493年(明応2年)に開山したという。
>1567年(永禄10年)、織田信長が岐阜に入ると、崇福寺は織田家菩提寺となる。1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長と織田信忠が亡くなると、二人の遺品は側室のお鍋の手で岐阜城から崇福寺に持ち込まれ、織田信長・信忠廟所に埋められたという。
>1600年(慶長5年)、織田秀信は石田三成の挙兵に呼応し、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城する。岐阜城が廃城後、崇福寺は岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用したという言い伝えがある。
>織田家の免状・信長公書状・信長公画像・信長公茶掛・清洲城鯱瓦・信長公教訓の絵・信長、信忠公廟所・側室小倉なべ消息・血天井(岐阜城の床板)等がある。
>大層な掛け軸は、独秀乾才禅師頂相(国重要美術品)
と、思われる。