Author Archives: なおみ

3583、岐阜散策 no.19 名和昆虫博物館(なわこんちゅうはくぶつかん、Nawa Insect Museum)

金華山を降りて、名和昆虫博物館(なわこんちゅうはくぶつかん、Nawa Insect Museum)、

>名和昆虫博物館(なわこんちゅうはくぶつかん、Nawa Insect Museum)は、岐阜県岐阜市の岐阜公園内にある、一般財団法人名和昆虫研究所が運営する日本最古の昆虫専門の博物館(昆虫館)である。世界各国の昆虫約12,000種類、30万点以上の標本を収蔵する。標本以外にも様々な昆虫の飼育、研究を行っている。毎年3月頃、東海地方の新聞、テレビ等の岐阜県の記事で、この名和昆虫博物館で飼育されているギフチョウの羽化が話題となる。

>ギフチョウの再発見者(命名者)である昆虫学者名和靖が、害虫駆除、益虫保護の研究のために、1896年(明治29年)4月に開設した名和昆虫研究所が前身である。研究所は当初岐阜市白木町にあったが、1904年(明治37年)に現在地に移転。名和昆虫博物館は1919年(大正8年)10月26日開館。建物は開館当時のもので、洋風2階建(設計は武田五一)。中の柱は唐招提寺のシロアリ被害を受けた柱であり、解体修理時に名和昆虫博物館が引き取り、シロアリの被害を残す目的で使用されている。明治洋風建築の貴重な建築物で、1996年(平成8年)に登録有形文化財(岐阜県第1号)に登録されている。

>隣接して名和記念昆虫館がある。1907年(明治40年)に建てられた洋風建築物で、建築当初は特別昆虫標本室として展示がなされていた。標本の保存の為に高床式になっている(設計:武田五一)。岐阜市指定文化財。名和昆虫博物館の西側に1919年(大正8年)名和靖の還暦を祝って建てられた昆虫供養の昆蟲碑がある(設計:武田五一)。代々館長は、名和靖の子孫が務めている。岐阜県まちかど美術館・博物館に登録されている。

引用終わり、
まあ、昆虫にそこまで興味があるわけでもなければ、子供たちもそこまでテンションあがるわけでもなく。

3582、岐阜散策 no.18 金華山リス村

続いて、金華山リス村、

>金華山リス村(きんかざんリスむら)は、岐阜県岐阜市の金華山山頂にあるタイワンリスの動物園である。

>金華山ロープウェー「山頂駅」から岐阜城へ向かう途中にある施設で、ロープウェーと同じ岐阜観光索道株式会社が管理運営を行っている。約100坪のオープンゲージの中に革手袋を着けて入り、調教されたタイワンリスに間近で餌を与えることができる。1965年(昭和40年)に開業した同施設が日本で最初のリス園。

>金華山にいるリスは、ここから逃げ出し野生化したものではなく、1936年(昭和11年)に岐阜公園で行われた「躍進日本大博覧会」の会場から逃げ出したものである。その野生化したリスを捕まえ、調教したのがこのリス村のリスである。

>料金4才以上 200円

後に、似たような施設に行ったとき、ほぼリスが見えないレベルの施設があったので、
ここは非常に調教されていて、料金的にもリーズナブルでよいと再認識。
というか、逃げ出して野生化したやつって、今のご時世だと結構問題。

3581、岐阜散策 no.17 金華山展望レストラン ポンシェル 3.44、個人3.2

まだ11時前だったけど、営業していたので、金華山展望レストラン ポンシェル 3.44、個人3.2、

信長どて丼750円、まあ、見た目通りの味、

眺めと、

使い勝手の評価でしょうか。
まあ、光秀味噌かつ丼とか、道三ケイちゃん丼とか、無理からだけど頑張っている、ともとれる、ということでしょうか。

3580、岐阜散策 no.16 岐阜城

さあ、岐阜城店主を目指す、

>岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の山(稲葉山(現・岐阜県岐阜市の金華山))にあった城(山城跡)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。

>『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。

>城の北側を流れる長良川対岸から見た現在の岐阜城跡の姿。山全体が岐阜城だったのであり、山中にも砦があり山全体が要害として機能し、麓には城主の館があった。岐阜市北一色から望む金華山連峰(南側山体)。各峰々に櫓が築かれ、山全体が要塞化されていたとされる。(大きな複合的な城であり)山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配された砦もあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していた。

>麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、信長が大規模に改修をし、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっており、有力者なども招かれたらしく、ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。

>当城の城主は、織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らであるが、秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに当城は廃城とされた。

>近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が国の史跡に指定された。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。

>なお現在山頂にある建造物は、1956年(昭和31年)に(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりで)鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中である。

>山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっている。又、天守の木造復元計画は予算の関係でないが、庭園の建物の木造復元と庭園の復元計画はある。

そんなわけで、下から見ても上から見ても、まあ、これを攻略するのは相当難しいわねという高低差と急な角度。さっとみると、

>1564年(永禄7年)3月 -斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
、なんか荒業?
>1567年(永禄10年) – かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
、これは調略、内応だな、
>1583年1同年(天正11年)6月6日 – 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。
、数で威圧、
>1600年(慶長5年) – 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。
、ということで普通に攻め落とされたのはこれくらいかな?

石垣好きにはたまらない昔の野面積みなど、さすがに見どこがある。

3579、岐阜散策 no.15 ぎふ金華山ロープウェー

2021/08/02(月)、メインの一つ、岐阜城目指し、

ぎふ金華山ロープウェー、

>四季折々の風景を楽しめる
ぎふ金華山ロープウェーの魅力
岐阜公園にある山麓駅と金華山の山頂駅を約4分で結ぶ
ぎふ金華山ロープウェー。(1955年4月開業)
2個の搬器が山麓駅と山頂駅間を交互に往復する三線交走式のロープウェーです。
(現在のゴンドラは6代目になります)
四季折々の風景を堪能しながら、空中散歩をお楽しみいただけます。

>車窓からは自然林に覆われた金華山と
長良川の自然美、岐阜市の街並を一望することができます。
ロープウェーの概要
斜 長 599.43m
高低差 255.43m
運行速度 秒速 3.6m
最急こう配 32度
搬 器 2両(最大定員46名)
所要時間 約4分

引用終わり、
まあ、世の中に、ロープウェイやらケーブルカーやらいろいろあるけれど、
何はなくとも、天気に恵まれることが一番やね。

3578、岐阜散策 no.14 飛騨牛一頭家 馬喰一代 岐阜神田 3.67、個人3.6

利用していたホテルが、決して悪いわけではないのだけど、とにかく近くに飲食店がありませんで、
飲酒を我慢し、車で夕食を食べてから戻らないと行けないのでした、
飛騨牛一頭家 馬喰一代 岐阜神田 3.67、個人3.6

低温調理ってやつの刺身?

キレイなタン、

カルビ?

値段もちゃんとだけど、評価通りいいお肉でした。

3577、岐阜散策 no.13 道の駅 織部の里もとす

続いて、道の駅 織部の里もとす

>独自の技法で作られた「織部焼」や、新鮮な農産物や焼き立てパン、ジビエ商品など、本巣市の魅力的な特産品を豊富にご用意しております。また、道の駅の名前の由来となった武人・茶人の「古田織部」を様々な角度から紹介し、織部焼・織部流茶道の歴史を知る事が出来る展示館を併設。さらに全国でも珍しい樽見鉄道の駅も兼ねており、観光列車「おおとり号」でもアクセス出来ます。車内・列車内からも素晴らしい景色を眺めながら、地域の魅力を存分に堪能してみてください。

引用終わり、
道の駅のレベルの差ってのは非常に大きいわけだけど、
ここは古田織部ってことで、戦国好きには結構見る価値あり。

3576、岐阜散策 no.12 横蔵寺(よこくらじ)

続いて、横蔵寺(よこくらじ)、

>横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。

>三重塔 檜皮葺。寛文3年(1663年)完成。岐阜県指定重要文化財

>西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。平安時代 – 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、草創や沿革については史料が乏しく、平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、史実として信じることはできないが、当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。

>多くの文化財を有する寺として知られるとともに、「ミイラのある寺」として知られている。舎利堂に安置される「舎利仏(即身仏)」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。

引用終わり、
建物の色褪せ具合といい苔といい、なんとも物悲しく、落ち着いた、雰囲気のよいお寺であります。

3575、岐阜散策 no.11 奥の細道むすびの地記念館

続いて、奥の細道むすびの地記念館

>大垣は、岐阜県の西部、西美濃の中心に位置しています。江戸時代の大垣は、東西交通の要所として、また、東西文化の接点として、経済・文化が発展した地でした。元禄2年(1689)の秋には、松尾芭蕉が「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下り、約5か月間の『奥の細道』の旅を終えています。
芭蕉は『奥の細道』の旅を大垣でむすびましたが、はじめて大垣を訪れたのは、『野ざらし紀行』の旅の途中、貞享元年(1684)9月下旬のことです。目的は以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。このとき、木因宅に1か月ほど滞在し、木因の仲立ちで大垣の俳人たちが新たな門人になりました。
芭蕉が門人に宛てた手紙によれば、『奥の細道』の旅のむすびの地は、旅立つ前から大垣と決めていたことが伺えます。芭蕉が大垣を旅のむすびの地とした背景には、早くから自分の俳風を受け入れた親しい友人や門人たちの存在があったのです。

引用終わり、
そもそも奥の細道についての知識がほぼありませんで、大垣がそういう地であったことをこの時初めて知ったわけですが、
これを書いた今日までそのことを忘れていまして、今初めて知った感覚でありますから、
また速攻で忘れ、また知った時には初めて知った感覚になるのでしょう。

3574、岐阜散策 no.10 金蝶園総本家 大垣駅前本店 3.56、個人3.3

続いて、すぐそばの老舗甘味、金蝶園総本家 大垣駅前本店 3.56、個人3.3

3種ミックス(こし餡、抹茶餡、季節の餡)4ヶ入540円、

>オープン日1798年
夏場の人気商品、水まんじゅう、流水の中にあるので、なんとも涼しげなんだが、
食べてみると常温で冷たくはない、まあ、当たり前か。
なんとも柔らかなとろける食感と、たしかに甘さが優しくて、上品な味わい。