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By | 2014年5月22日
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>えー個人的には面白いし、ブログの位置付けが定義されて
違う方向になるんだとしたら、
今のスタンスのブログは、それはそれで死ぬまで続けてほしい。

こんなメールを今朝頂戴しました。
送った本人に、そこまでの思いがあるかどうか、
パッションとして刹那的にあったかどうかはわかりませんが、

>死ぬまで続けてほしい。

これ強くないですか?というか、そんじょそこらで出会うワードではないと思った。

死ねとか、殺すとか、そういうワードはよくない、みたいな論調。
最近は減ったのかな、一時期よく見た気がします。
テレビゲームがどうとか、バラエティがどうとか、PTA的な人から。

死ね、でも、生きろ、でも、殺す、でも、
死ぬな、でも、命にかえて、でも、命がけで、でも、
たしかに、言葉だけで受け止めると、かなりヘビィ。

それについて、NO、という人の言葉に耳を傾けるまでも無く、
その言葉を発する側に、何の責任も覚悟も無いのであるなら、
そういう言葉を使って、何かを表現するのは、
言語選びのセンスが足りないよ、という指摘は至極正しい。

ただ、よく見るのは、そうではなく、
とにかく、その言語、その表現禁止、から入るわけ。

おし、でも、かたわ、でも、つんぼ、でも、くろんぼ、でも、こじき、でも、何でもいいや。
差別用語、ってのが世の中にはあって、
その言葉を見聞きすると傷つく人がいるとする。

それを解消しようとした時に、その言葉自体を無くす、
というアプローチがどうしてもわからない。

その人が、その思いを伝えたいと思ったときに出てきた言葉が本当であって、
それ以上でも以下でもない。

その人がその言葉を選んだことには良いも悪いも正義も悪も無くて、
そんなことより、その人がスムーズに選んだ言葉が、
その人が本当に思ったことだから、それがある種、
本当、に近い、と思うわけ。

長くなったけど、そんなことを踏まえた私だから、上記のワードを素直に使う人の言葉に、
改めて心が揺さぶられました。

繰り返し、そう書いた人に、そこまでの思いはなかったかもしれないけれど、

>死ぬまで続けてほしい。

僕が死ぬまで、僕はこのままで生きていいんだ、という究極的な肯定、
僕が死ぬまで、僕が僕らしく表現していくことを、無理なくそこそこの距離で観て行くよ、

ということを言われたと、僕が思うことに、無茶な論理のジャンプはなかったんだ。

さらに、無茶かもしれないけど、思考のジャンプをすると、
俺が死ぬまで、という限り、じゃあ、俺よりも先に死ぬなよ、とか、
俺が死にそうな時に、それを思い出して、死ぬのを回避する、
それなりにちゃんとした、何かの一つになるな、と思った。

だから、
ちょっと無茶があるかもしれないけれど、
これを読んだ、君。
俺は、君がこれを読み続けくれる一人である限り、
死ぬまでこれを書き続ける。
だから、君は俺が死ぬその日が来るまで、
これを読み続けてくれ。

これくらいの約束で、君が生きることに面倒くさくなった時に、
この約束を思い出してくれるなら、
こうして書くことにはそこそこの意味があるね。
もう、面白いかどうかは関係なく。

っで、書き続けることを、僕が約束するかどうかで言えば、
約束する。
僕は毎日書く。君がこれを読んでくれる限り。
違うな、それは、ひょっとしたら君に重荷になるかもしれない、
そういうのは、僕は好きじゃないんだった。

僕は書くよ、それが僕だから。
そんな僕が、君にとっての僕だと認識してくれるなら、
それだけで、君にとって僕の一つが伝わったわけだ。

それで、それだけで、まずは充分。

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