2086、四国散策 no.46 大洲城、隆景、高虎などビッグネームが

By | 2020年1月26日
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この日は城が続く、宇和島から愛媛県大洲市へ、大洲城、

左の高いのが、天守
>4層4階の天守は、明治期の古写真や天守雛形と呼ばれる江戸期の木組模型などの史料をもとに平成16年(2004)に木造で復元されました。

右の低いのは、高欄櫓(こうらんやぐら)
>大洲城の中で唯一2階に縁と高欄のある櫓で、城内が一望のもとに眺められます。
現在の高欄櫓は、台所櫓同様、安政4年(1857)の地震で大破し、万延元年(1860)に再建されたものです。昭和45年(1970)に台所櫓とともに解体修理を行いました。

>▼歴史・沿革
大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。

>その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。

>●大洲城のはじまり(1331~)
大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。

>大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。

>戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。

>永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。

>●小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585~)

>天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。

>この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。

>戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。

>隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。

>●藤堂高虎の時代(1595~)

>文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。

>併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。

>慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。

>慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。

>このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。

>●脇坂安治の時代(1609~)

>慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。

>これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。

>脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。

>脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。

>大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。

>●加藤貞泰の時代(1617~)

>同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。

>以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。

>加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。

引用終わり。

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