2736、高松散策 no.14 高松城 no.3 近世城郭の海城としては、最初で最大

By | 2021年11月16日
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>高松城(たかまつじょう)は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。

>別名・玉藻城(たまもじょう)。

>国の史跡に指定されている。

>別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。

>高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。

>現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。

>近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。

>本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。

>その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。

>現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。

>1587年(天正15年) – 生駒親正が讃岐国12万6千200石(のち高直しで17万6千石)の大名に封ぜられ引田城に入城するが、手狭であったので同年中に聖通寺城に移る。

>1588年(天正16年) – 聖通寺城でも不便を感じたため、香東郡篦原庄玉藻浦(現高松市玉藻町)に築城を開始する。

>1590年(天正18年) – 高松城完成。

>1869年(明治2年) – 版籍奉還に伴い廃城となる。

>1884年(明治17年) – 老朽化のため天守が破却される。

>現在、高松市立玉藻公園として有料で開放されている。

>天守は現存せず、重要文化財には月見櫓、艮櫓(丑寅櫓、うしとらやぐら)、水手御門(みずのてごもん)、渡櫓が指定されており、毎週日曜日、月見櫓と渡櫓の中が一般公開されている。

>また、城内にある桜の馬場は桜の名所として知られ、春になると多くの花見客が訪れる。

>高松市街中心部北辺に位置し、北側にフェリー乗り場など港湾施設、西側にJR高松駅、東側に香川県民ホール・香川県歴史博物館、南側には高松高等裁判所・西日本放送などがある。

>天守の復元計画は1980年代半ばに、高松市が市議会の意を受け天守閣の復元に動き、外観姿図を含む構想を策定し、文化庁に提出したが、審議の対象にすらしてもらえなかった。

>1996年にも史跡高松城跡保存整備計画としてまとめたが結果は同じで認めらなかった。

>2003年には香川証券の平井二郎会長は、高松市にある出版社の文教社の協力を得て、天守の資料を作成し、地元経済人らに働き掛け、「玉藻城再建の会」(仮称)の設立準備を進めた。

>当時、平井会長は、資料が乏しいといっても小倉城(北九州市)を参考に建てられたとされ、同じ津山城、岩国城(山口県岩国市)の絵図などが参考になるはずとして、復元より再建と持論し、「史実にすべて沿った『復元』は不可能。ならば、現実に即した夢の城に『再建』を」。木造による本格的復元にこだわるべきではないとし「市民が気軽に上がれる城でなければ。エレベーターを付けるなどバリアフリーへの対応も必要」と訴えていた。

>文化庁は文化財保護の立場で史跡での復元の基準を1967年以降厳しくしており、資料不足を理由に外観だけの復元は認めないと拒否して来た。

>2003年夏、この地区が国の構造改革特区に申請されたことで、それまで「資料が写真一枚しかない」ことを理由に復元の拒否をしてきたとみられた文化庁が復元に対する考えを軟化させたため、その後、高松市は整備検討委員会を設置し、2010年の着工を目指して準備を進めていたが着工には至っていない。

引用終わり、
天守閣が復元されることを願う。

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