Author Archives: なおみ

2122、四国散策 no.61 大観覧車くるりん、大観覧車と観覧車って違うの?

松山市駅すぐに、いよてつ髙島屋というのがありまして、まあ髙島屋なんだけど、

伊予鉄道も資本を出してるのかしらん?

そこにある、大観覧車くるりん、

観覧車と言えば、大阪であれば、ガンバの本拠地でもある、吹田にいろいろ透明で出来ている結構怖めのが比較的最近できたり、

あるいは、なんだかんだなんども通った淡路島のSAにも観覧車があり、

海遊館のやつも大きかった気がし、梅田にある真っ赤なやつは印象的で何度も見たし、

っていうかなんだったら難波のドン・キホーテにもあるのも結局観覧車だった気もするが、いずれにも乗っていないわけで、

何が書きたいかというと、結局、観覧車に乗るというのは、よっぽど時間があったってことなんだろう。

まあ、松山城がこれくらいの距離から観られるってのはここにしかないので、

乗る甲斐はあったのやもしれんが。

>9階大観覧車
営業時間、午前10時~午後10時まで
※乗車最終受付時間は15分前となります。
料  金、お一人さま700円(シースルーゴンドラは900円)※小学生未満無料(保護者同乗)

>地上から最高点までの高さ/85m
輪の直径/45m
ゴンドラ数/32台(4人乗り・全ゴンドラ車いす対応)
1周回転時間/約15分
空調設備/各ゴンドラ設置

引用終わり、
ところで、観覧車と大観覧車の違いって何か明確にあるんだろうか?

2121、四国散策 no.60 すし丸本店、3.56、松山鮨とたいそうめん

12時過ぎ、すし丸本店、3.56、

写真左が、
>松山鮓(もぶり飯)
文豪、正岡子規と夏目漱石が愛した松山の郷土寿司
概要、エソやトラハゼなどの瀬戸の小魚でとった出汁と甘めの酢を用いて酢飯をつくり、アナゴやエビ、タコなどの瀬戸内の魚介類、錦糸卵やショウガなどを盛り付ける。
松山では、混ぜることを「もぶる」ということから、もぶり飯やもぶり鮓とも呼ばれる。
【歴史・由来】、松山では祝い事や客をもてなす際にばら寿司をふるまう習慣があり、瀬戸内の食材を贅沢に散りばめた松山鮓がうまれたとされる。
明治時代、夏目漱石が松山にある正岡子規の家に立ち寄った際に松山鮓がふるまわれ、とても喜んだというエピソードが伝わる。
【作り方】、・エソやトラハゼなどでとった出汁と甘めの酢を用いて酢飯をつくる。
・味付けしたアナゴや酢でしめたサバやサワラ、刺身、錦糸卵やショウガなどを盛り付ける。
【食べるシーン】、お祝いの際や来客時、人が集まる時に食する。
【提供店】、日本料理すし丸本店やふなやなど松山市内の寿司屋や飲食店。

こちらが、たいそうめん、
>【愛媛県】愛媛の鯛そうめん
「鯛麺」とも呼ばれる瀬戸内海沿岸地域の料理。愛媛では、松山や宇和島・大洲などの南予地方で祝いの席に欠かせない料理だ。
地域によって違いはあるが、大皿にそうめんをさざ波のように盛り付けて真鯛の姿煮をのせ、錦糸卵やシイタケ、薬味のネギ、おろし生姜などを添える。
食べる時に身をほぐし、鯛の煮汁を元にしたツユをかけるか、つけて食べる。松山では五色そうめんを使用。

引用終わり、
なんだけど、冬なので、にゅう麺だった模様、

生モノを避けている相方を他所に、目の間の生け簀から出てきた赤貝となんか地の旬の白身魚と思われる。

松山鮨は見た目通り、なんだかなぁであるが、
たいそうめんは出汁がよいですね、出汁がさ。

2120、四国散策 no.59 ロープウェイの説明はあると非常によい

天守から出、城境内?名物ソフト?いよかんソフト?

本来なら、下りは歩いて帰ってもよいのだろうが、身重なので、ロープウェイ、

違うか、行きはリフトであった、すでに忘れている、

ロープウェイとかケーブルカーとかいろいろ乗ってきたけど、

こうして素敵なお姉さんが、ちょっとした説明をしてくれたりするところはやっぱりいいやね。

もうちょっと言うと、おじさんでも録音でもいいんだけど、そこそこがやがやしていてもちゃんと聞き取れて、
聞くに耐える中身があるといいです。

市内に戻る。

2119、四国散策 no.58 松山城 no.3 トリップアドバイザー4位

やっとこさ、天守、

>重要文化財

>松山城には天守を含めて21もの重要文化財があります。観光のポイントをご紹介します。

>21棟の重要文化財

>天守、三ノ門南櫓、二ノ門南櫓、一ノ門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三ノ門、二ノ門、一ノ門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三ノ門東塀、筋鉄門東塀、二ノ門東塀、一ノ門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀

>みどころ紹介天守(重要文化財)・小天守

>天守と小天守

>天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。詳しくは天守についてをご覧ください。

>小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。

>天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭といわれています。

>一ノ門・一ノ門南櫓(重要文化財)

>一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。

>形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で、二ノ門との間は枡形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。

>南隅櫓・十間廊下・北隅櫓

>玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓です。

>十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。

>筋鉄門は櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する重要な門です。この門の櫓は小天守と天守のをつなぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

>天神櫓、卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ具足櫓でありましたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称です。

>全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓となっています。

>紫竹門(重要文化財)、本壇に接して紫竹門および続塀があります。乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀・西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の搦手(裏)を防衛する重要な構えです。

>乾櫓(重要文化財)、乾櫓は築城当初の二重の隅櫓で、本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に鈍角の櫓が建っています。乾門・同東続櫓とともに搦手(裏側)を防衛する重要な構えです。

>弾丸が壁を貫けないように壁の中に小石や瓦を詰めて厚くする、太鼓壁構造となっています。

>乾門・乾門東続櫓、この門、櫓は慶長年間正木城から移建されたといわれ、乾一ノ門とともに、松山城の搦手(裏)の門の中で、最も重要な構えとなっています。

>野原櫓(重要文化財)、日本で唯一現存する望楼型二重櫓

>野原櫓は乾櫓とともに本丸西北を防備するとともに、その東にあった小筒櫓(跡)と本丸の北側を防衛する重要な櫓であり、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型といわれています。

>野原櫓(騎馬櫓)は、1階の天井の梁(はり)を通じて2階を支える構造となっています。

>これは「現存12天守」の犬山城と同じ初期の望楼型(ぼうろうがた)と言われる建築手法です。

>黒船来航の翌年に再建落成された松山城の天守は、層塔型(そうとうがた)といわれる天守台(柱を受ける土台)の精度が要求される建築技術となっており、城郭の作事(建築)の技法が進化していく過程を本物で見ることができるのも松山城の魅力です。

>井戸、南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際、谷底にあった泉を井戸として残したといい伝えられています。井戸の直径2m深さ44.2mで当時の技術では、通常、掘ることができない深さがあります。

>隠門(重要文化財)・隠門続櫓(重要文化財)、隠門、隠門続櫓

>この門は筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門から筒井門に迫る敵の背後を急襲する構えとなっています。

>脇戸を持たず、扉の横板張りの中に潜戸(くぐりど)を仕組むなど規模は小さいですが、豪放な構えで、続櫓外部の下見板張りや格子窓形式の突揚げ戸などとともに、築城当時の面影を見ることができます。

>戸無門から筒井門を臨む(隠門は見えない)

>城の防備を固める上で、最も重要堅固な意味合いを持つのが筒井門と隠門です。

>戸無門を通過して、目に付くのは筒井門で、その奥にある隠門は分かり難くしています。

>これは、侵入者の注意を筒井門に向けさせ、そこを破ろうとする敵を隠門から打ち出て、背後から襲う戦略とみられています。

>これら門の上には続櫓があり、松山城の守りの堅牢さを象徴するものとなっています。

>筒井門、この門は築城の際、正木城から移建されたと伝えられる松山城最大の門です。三之丸・二之丸から本丸へ向かう、大手(正面)の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な所となっています。

>戸無門(重要文化財)、この門は、本丸の大手入口の最初に現存する高麗門です。登城道U字屈折の終点に位置します。昔から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がありません。

>太鼓門・太鼓櫓、太鼓門・同南北続櫓・太鼓櫓・巽櫓は1つの防御単位を構成し、高さ約5mの石垣に一線に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えています。

>太鼓櫓、石垣の西端の太鼓櫓と太鼓門との間にある24.41mの渡塀には狭間21ヵ所、石落2ヵ所が設けられています。

>艮門・艮門東続櫓、本壇の鬼門(北東)にあたり、不浄門ともいいます。

>この方面の防備を担当すると共に、本丸防衛のための出撃口としての意味も持ち、敵が大手(正面)の揚木戸門に、あるいは、また搦手(裏側)の乾門方面に迫ったとき、この門から出撃して侵入者の側面を攻撃するためのものと考えられます。

以上、松山城でした。

トリップアドバイザーのランキングだと、

姫路、松本、熊本、についで、堂々の4位、

それも納得のお城で、一生に一度は行っておくべきでありました。

2118、四国散策 no.57 松山城 no.2 「日本100名城」

>創設

>松山城の創設者は加藤嘉明です。

>嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。

>慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。

>そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。

>その後も工事は継続され、四半世紀の後にようやく完成します。

>当時の天守は五重で偉観を誇ります。

>江戸時代から現存する天守

>しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。

>そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

>その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。

>なお天守は寛永19年(1642)に三重に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興しました。

>これが現在の天守です。

>現在へ

>その後、昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められました。

>基本データ

>松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築き始めたお城です。

>門・櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城と言われております。

>松山城は、日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つです。

>平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。

>また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、

>韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、

>「日本さくら名所100選(平成2年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。

写真が終わらないなぁ、

まだ、天守にもついてないのに、

ええと、いろんなサイズの狭間、

下から、

幾つめの門?であろう、

再度櫓?

というかいよいよ建物入口?

そしていい天気、

うむ、入る模様、

2117、四国散策 no.56 松山城 no.1 ロープウェイでいざ

続いて、松山城を目指す、手元のいろいろ券1,700円、

行き方はいろいろあるんだろうけど、基本のロープウェイ、

松山城を築城した、加藤嘉明由来の、よしあきくん、

ロープウェイ乗り場、

樹と空、

青空と、下りのロープウェイ、

とりあえず、高所恐怖症の私は、どっちかというと、ロープウェイというかリフトが得意ではない、

が、到着。

2116、東京へ戻り思うこと no.6 公園事情

2020/02/24(月・祝)は、相方が友人と会っていたので、
久しぶりに息子と二人、昼過ぎから公園などに行ってみ、
相方からの報告を踏まえると、
大阪のブランコは、座るところがおむつというか、パンツというか、
すっぽり包むタイプのが結構ありまして、
それこそ1歳児でも乗れないことはない。
一方東京では今のところ見ない。

それから大阪の砂場には砂以外特に何もないんだけど、
東京は、砂場で遊ぶシャベルとかバケツとかが置いてある。

だから何だという話だが、東西で違うのだなぁと。

2115、親になる no.151 はじめての手を洗う

まったく最近の話ではないのだが、外出から戻ると自ら手を洗おうと、腕まくりをしようとする。
相方の教育なのか、我々を観て真似しているのか知らんけど、
たまたま新型ウィルスなんかが気になる時期なので結構なことであります。
うちの子が成長している、ってことよりは、ホントに親を真似しているな。
基本的に私は、潔癖症でもなんでもないんだけど、
外から入ると、外食時とかも店に入ったら、生を頼んでから
トイレに行き、手洗いとうがいをしないと気が済まないたちでして、
こういうことは真似てもらいたいもんだが、今のところうがいはしない。

2114、四国散策 no.55 萬翠荘、知らんかったけど立派

改めて2017/12/13(水)、まずは萬翠荘、ばんすいそう、
9時オープンの9:30着、さすがの平日で他の観光客もまばら、

>大正浪漫を今に伝える、日本が誇るフランス風洋館

>萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。

>陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。

>また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。

>萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、昭和60年(1985年)に愛媛県指定有形文化財となりました。

>その後、平成23年(2011年11月29日)に萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定されています。

>建築その物も美術品ですが現在は、絵画、掛け軸、伝統芸術品、各種イベント、個展を随時行っています。

>同敷地内には愚陀佛庵があり句会が行われておりましたが、平成22年7月の土砂崩れにより全壊し、現在は跡地のみとなっております。

>この敷地は、松山藩の家老屋敷の跡地であり、夏目漱石が明治28年、松山中学の英語の教師として赴任した折に下宿をしておりました、

>「愛松亭」のあったところでもあります。〔現在の敷地面積9,535.05m²(含山林)(2,884坪)〕

>大正11年に建てられ、約30万円といわれております。

>県庁本館が昭和4年に約100万円で建設されましたが、その7~8年前にはるかに小規模の分館に約1/3の30万円を要したということは、いかに巨費であったかご理解いただけると思います。

引用終わり、300円、
知らんかったけど、立派でありました。

2113、四国散策 no.54 素敵なホテルでした

ちゃんと調べればわかるのだろうけど、面倒なので何というホテルかわからんのだが、
ご覧の通り、みかんはもちろん、豚汁やらおにぎりなんかのサービスはついつい食べてしまうから

身体にいいのか知らんが、嬉しいは嬉しい。

あけて2017/12/13(水)、そうかそうか、ここは朝食がとても素敵なんでした、
この種類の多さはやばい、9個にわかれた皿だからね、普通は4でしょ、

生みかんジュースマッシーン、贅沢、

フルーツの種類もすごいなぁ。
そんなに高いホテルということもなかったと記憶する。