Author Archives: なおみ

3751、箱根町立郷土資料館

2022/02/11(金)、宿を後にし、この日は電車だったので、徒歩にて、箱根町立郷土資料館、

>歴史を知ると、箱根はもっと面白い!
 当館では、箱根温泉が「七湯」であった江戸時代から、現在の「十七湯」となるまでの歴史をたどります。
湯治場から物見遊山、そして温泉観光地へという温泉の利用形態の多様化や、道路や交通機関の整備をはじめとする、さまざまな近代化の動きをご覧いただきます。
多くの皆様のご利用をお待ちしています。

>体験コーナー
郷土資料館では、現在5つの体験コーナーがあります。どのコーナーも箱根ならではの体験が楽しめます。資料館にお立ち寄りの際はチャレンジしてください。
旅の安全を守る ミニわらじを作ろう! 
江戸時代、わらじは箱根山を越える多くの旅人の足を守り続けました。
旅の安全を願い、ミニわらじを作ってみませんか?
(材料は紙ひも、できあがりサイズ約5cm。所要時間およそ30分です)

引用終わり、

などなど、まあ、それなりではあるけど、300円の価値があるか、
わざわざ行くかというと。

3750、親になる no.282、はじめての修了式

2024/03/18(月)、長男はじめての修了式、
同い年の従妹の子は、卒園式だったそうなので、場所によって違うらしい。
10時開始、お父さん参加率90%、メインは園長から修了証を受け取る、
その場でくるりと振り返り、
「大きくなったら、〇〇になりたいです。」
と言い、保護者のところに行って、修了証を渡す。
女子はアイスクリーム屋さん、花屋など、
男子は、メジャーリーガー、建築家、魔法使いなど。
証券マンはいませんでした。
まあ、感動なシーン何だろうが、完全に大人の都合で言わされているわけです。
何になりたいかを決められないからエスケープするように大学に行く人が大変なのに、
6歳そこそこの人間に無理やり言わせるのはどうなんだろう?
そして、心無い大人は、あの時ああ言ったと、一生言うんだよ、
言われた人がどう思うかも知らんと。
その後、
みんなで遠足に行きました、
動物との触れ合いが面白かったです、
など、一人一言つなげていく。
さすが幼稚園児、まあ、間が出来ること、出来ること、
そんで結構、先生がすぐには手助けをしない。
きっとそこはわざとなんだろうなと思った。
その合間に歌を歌うわけだけど、
五曲くらいあり、全体的には20分くらいあり、
知らない歌も多く、正直、長い。
場所を体育館から校庭にうつし、小学校が一緒になっているので、全校生徒?なんかしらんけど、
かなりの人数に見送られて退場。
雨だったらどうしたんだろう?
まあ、そんな式でありました。

3744、鮨・酒・肴 杉玉 両国 3.35、個人3.3

そのまま両国でディナー、まだ新しかった、鮨・酒・肴 杉玉 両国 3.35、個人3.3、
最近結構店舗が増えている印象、スシローがやってるのね。
もっと使い勝手のよい時間にやっていたと記憶するんだが、かわったのか。
気軽だし、品ぞろえも豊富なので嫌いではないんだが、ローテには入ってない。

3743、東京都復興記念館(とうきょうと ふっこうきねんかん)

同じく横網町公園内、東京都復興記念館(とうきょうと ふっこうきねんかん)、

>東京都復興記念館(とうきょうと ふっこうきねんかん)は、東京都墨田区横網二丁目の横網町公園内にある博物館で、管理運営は公益財団法人東京都慰霊協会が行っている。横網町公園は、1930年(昭和5年)9月1日、震災のメモリアルパークとして造られ、公園内の復興記念館は、1931年(昭和6年)8月18日に開館した。関東大震災の惨事を長く後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念するためのもので、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料、古今の各地における震火災に関する諸資料が保存されている。また、戦後には隣接する慰霊堂(震災記念堂から改称)に戦災者の遺骨が収められ、そのうち住所氏名が明らかである分の名簿が復興記念館に保管されている。合わせて太平洋戦争末期における東京大空襲などの戦災関係資料を保存・展示している。

引用終わり、
そんなわけで、こっちは結構見どころのある資料館。もちろん無料。
家の近所にこういう施設があるのはいいことであります。
しばらくしたらまた行こうと思っている。
まだまだ他に見られそうな施設があるので、なかなか行っていないけど。

3742、東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)

そんなわけで、横網町公園内にある、東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)、

>東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。震災と戦災の犠牲者16万3000柱を供養し、また毎年3月10日と9月1日に大法要が営まれる。現在は公益財団法人東京都慰霊協会が管理運営を行っている。
外観は日本旧来の神社仏閣様式であるものの、納骨室のある三重塔は中国やインド風の様式を取り入れ、講堂内部はキリスト教会で見られるバシリカ様式とし、内部に列柱を設けて中央の広い身廊と左右の側廊との空間を分けている。内部の壁や天井にはアラベスク的紋様も採用し、全体として多くの宗教的要素を取り入れた折衷的構成となっている。鉄筋コンクリート構造により、1945年3月10日の東京大空襲など、戦時中、多くの空襲下でも難を逃れた。

引用終わり、
そんなわけで、結構よい雰囲気な建物であります。
気軽に入れるのです。