2261、粉河寺散策 no.4 粉河寺、たしかに特徴的な庭

By | 2020年7月25日
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粉河寺到着、どーんと大門、
>規模の大きい三間楼門で、和歌山県では、高野山・根来寺に次ぐ威容を誇る。宝永四年(一七〇六)総欅造り。金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。
>大門をくぐると、大小20有余の堂塔伽藍が建つ35,000坪の広大な境内地。本道まで約200mの石畳の参道が続きます。

>粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市にある寺院。天台宗系の粉河観音宗総本山。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。西国三十三所第3番札所。本尊は千手千眼観世音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

>草創の縁起は『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。

>「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。

>その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

>2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。

>喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。

>長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。

>以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

>中門【重要文化財指定】

>中門三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅(けやき)材で繊細な建物に仕上げられています。

>中門をくぐると、左手に粉河寺庭園と本堂が見えてきます。

>粉河寺庭園【国指定名勝】
粉河寺庭園本堂の前庭とその下の広場との高低差を利用して作られた、日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園。
雄大な本堂を本堂下の広場から仰ぎ見るときの前景でもある、珍しい様式の庭園です。

>本堂【重要文化財指定】
本堂8世紀(770年)の創建より、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は享保5年(1720年)に再建されました。
江戸時代中期の欅(けやき)材による代表的建築で、西国三十三ヶ所の中で最大。
他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式です。

ということで、写真は一枚なんだけど、今までに観てきた庭と違って、
>ダイナミックな造型で人々を魅了している本堂前の枯山水庭園は国の名勝に指定されています。

何が凄いって解説を読んだりせずに、この庭の特徴を言い当てた私が庭なんかに詳しくなってきているなぁと。

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