Author Archives: なおみ

2217、来居譜、3.09、焙煎している店が近所にあるのはいい

地元の大国町に戻りお茶、来居譜、3.09、
決していい雰囲気の店内ってわけではないんだけど、
この店は界隈でおそらく唯一自分とこで焙煎をしている店。
どこまでホントかしらんけど、昔何かで読んだのは、
焙煎って少量するわけにいかないので、ある程度の量まとめてして、
近所の店に配るから、焙煎をしている店がある近くの喫茶店は質が高いんだと、
しらんけど。

それがあるからかしらんけど、昔も書いたか、
大国町にはチェーンのカフェが一つもないかわり、
昔ながらの喫茶店が、結構ある、そう、10じゃなく20以上。
土日のモーニングに一通りいったんのだけど、
必ず結構混んでていて、常連の年寄りが茶をしばいている。
しらんけど、珍しい風景な気がする。

まあ、それはそれでいいんだけど、チェーンのカフェが一つでもいいからあって欲しいと、
強く願っていたっけ。

2216、うさみ亭 マツバヤ、3.64、きつねうどん発祥

2018/01/27(土)、出産も控え、あまり遠出はしなくなっている頃か、
土曜なのに近場でランチ、とはいえ難波から心斎橋を抜けさらに北、
我々の脚では全然徒歩圏内だけど、わざわざ行く距離でもなく、でもわざわざ行ったのか?
たまたまだけど、2017/03/14の日経夕刊で紹介されていて、そのうち行くかもしれない店の記事なんかはとっておいて、
というくだりだったと思われる。
うさみ亭 マツバヤ、3.64、きつねうどん発祥の地なんだと。

右が、きつねうどん。550円
左は、もう一つの看板、おじやうどん、750円
>お鍋に半分うどん・半分ごはん・千切りのお揚げさん・味つき椎茸・鶏肉・卵・ねぎ・生姜・アナゴ・かまぼこが入ってるおうどんです☆

引用終わり、見ての通り、大阪の柔らかいうどんであり、お出汁がよいんだろうけど、
そこまで他との違いはわからず。

2215、アンケラソ、3.58、あんけらそ、って大阪弁だったのね

2018/01/26(金)、アンケラソ、3.58、
後に、松本家の休日にも出てた、難波の人気店、

ビールはこんなグラス、豚の心臓塩ゆで300円?

セセリたれ焼350円?

やみつき焼き枝豆300円、

お酒の種類は豊富、

はんぺんなんだろうけど、メニューが見当たらない、

なんかの肉、

牛すじクッパ650円、

点数通り、安くて美味しい、狭いけど、雰囲気もよいと、
ところで、ついさっきまで、あんけらそ、ってスペイン語とかかと思っていたんだが、

>あんけらそ
大阪弁
訳語、呆然
解説、ぽかんとしている様、またその人。「あんけ」はぽかんと口を開けている様。あんけらその顔しとる。どこ行っとってん、このあんけらそ。どこ見て歩いとんねん、このあんけらそが。

なんだと、知らんかったし、大阪で聞いたことは一度もありません。

2213、めなみ、3.69、鴨と葱

そして、夕食は、めなみ、3.69、なんだが、店は三条であるな、結局なんか行ったり来たりしているが、
どういうことだろう?思い出せないので、まあいいや。

メニュー日替わりの店なので、よくわからんが、
季節青菜のお浸しか漬物?一月っていうと、なんだろう、

これもわからんな、春巻じゃないだろうし・・・、

湯気凄過ぎだが、シンプルに鴨と葱かと、

これまた謎の魚だが、頭というよりも、可食部が多くね?

点数通りの良いお店でした。

2212、常林寺、特別公開、なんだが、覚えていない

結果、結構行った特別公開、この日はそこそこのスポットをはしごし、
そもそも相方は身重であるからもう帰るところであったのだけど、
ここ常林寺は、京阪利用者には馴染みというか、入ったことはないけど、脇を何度も通った場所。
というのも、京都から京阪で大阪に戻る際、四条や三条が近いんだけど、そこからだと基本座れないので、
始発の出町柳駅から乗るのです。
なので存在は知っているけど、行ったことない寺なんだが、普段は公開していなくて、
特別公開ということであれば、疲れているけど、入っておくしかない、ってなことで入ったと思われる。

>光明山摂取院常林寺と号する浄土宗の寺院である。天正元年(1573)、念仏専修僧、魯道(ろどう)によって開創され、当初は、寺町荒神口(上京区)に建てられていた。

>創建時より、知恩院とゆかりが深く、本末制度が確立したときには、総本山知恩院の役番としての地位を占めていた。しかし、寛文11年(1671)には、寺町の大火により類焼し、堂宇を悉く焼失した。

>その後、現在の地に移転し、元禄11年(1698)、英誉(えいよ)によって本堂が再建された。また、幕末の頃当寺は、勝海舟が宿坊として利用していたといわれている。

>本堂には、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、地蔵堂には、古くから若狭街道を往来する人々の信仰を集めたといわれる世継子育(よつぎこそだて)地蔵尊が祀られている。また、当寺は、通称、「萩(はぎ)の寺」の名で人々に親しまれており、初秋には、紅白の萩の花が、境内一面に咲き乱れる。

>なお、毎年9月の敬老の日には、「萩供養(はぎくよう)」が催される。左京区田中下柳町

引用終わり、
ということなんだけど、まあ、何も覚えていない。

2211、仙洞御所、京都仙洞御所、になりました

桂から京都市内へ移動、

この日は、相方の事前準備よろしく、

宮内庁管轄の完全予約制スポットのはしごだったのね、

ということで、仙洞御所、

あまり聞かない名前と思われる、

京都御苑にありまして、

というか、そういう意味では、京都御苑には、

この仙洞御所、京都御所、京都迎賓館と、

完全予約スポットが複数あることを再認識、

さて、相変わらず大量の写真なので、

>仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(太上天皇・太上法皇・上皇)の御所。

>仙洞とは本来仙人の住み処を指し、そこから転じて上皇・法皇の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。

>解説

>仙人とは中国で古くから信じられた理想的な人間像で、俗世を離れて深山に隠遁することから、退位した天皇の住まいの美称として用いられるようになった。

>貴人の住まいを「御所」ということから「仙洞御所」と呼ばれた。

>上皇・法皇は退位後、内裏から退去して仙洞御所に移るのを常とし、里内裏が多くそれにあてられた。

>仙洞御所はまた「院(いん)」とも呼ばれ、これも上皇・法皇の別称として使われた。

>仙洞御所には家政機関としての院庁が置かれたほか、白河上皇の時には近衛として北面武士のちに西面武士が設置された。

>京都仙洞御所

>現在、京都市上京区にある京都御苑内で、京都御所の南東に位置している。

>これは1627年(寛永4年)に京都新城の跡地に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は「桜町殿」という。

>東部には広い池を中心に庭園が広がっている。

>初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。

>仙洞御所の建築群は1854年(嘉永7年/安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年(慶応三年)以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備された。

>庭園の南東周辺が空地であったため京都迎賓館建設の声が上がった際には、その候補地のひとつにも挙がったが、結局別の場所に建設された。

>なお、仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている。

>前述のとおり京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れた。

>大正時代には大宮御所の御常御殿の内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整った。

>現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に「大宮御所」と呼び天皇・皇后の京都府への行幸啓(帰京)の際の滞在施設として使用されている。

>仙洞御所(大宮御所ふくむ)の地は、かつて聚楽第の後身として豊臣家の本邸「京都新城」のあった地であり、当時は太閤御所・太閤上京御屋敷などと呼ばれていた。

>豊臣秀吉が没した翌慶長4年9月に大坂から秀吉の正室・北政所(のちの高台院)が入り、居住した。

>彼女は寛永元年に没ししばらくは甥の木下利房が住したが、寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、幕府はこの地を仙洞御所と大宮御所の地として選び御所建設工事に着手した。

>このとき御所の規模構造について大坂城代から「皇居より大きくしないこと」などと細かな指示書が示されている。

>譲位の意向は徳川和子(のちの東福門院)の生んだ親王が夭折したためいったん撤回され、工事の進捗は緩慢になったと考えられるが、寛永6年11月天皇が突如譲位を決行すると、工事を再開、翌7年12月に上皇は新構の仙洞御所に移徙(わたまし)している。

>このとき多くの建物は二条城から寛永行幸の際に使用した建物を移築再利用している。

>阿古瀬淵は豊臣家邸宅庭園の遺構と伝える。

>1840年(天保11年)の光格上皇の崩御後は、退位し上皇となる天皇がいなかった事から、1869年(明治2年)の東京奠都に伴う東京への皇室や御所の移転を経た後も従来より単に「仙洞御所」と称されてきた。

>しかし、2019年(平成31年)4月30日、第125代天皇明仁が東京奠都後の天皇として初めて退位し、上皇となった。

>その上皇の御所としての「仙洞御所」の名称が東京(東京都内)にも必要となったことから、区別の為に「京都仙洞御所」と改称された。

ということで、なんとまあ、この写真の時と、

今では、名前が違っていたのでした。

2210、中村軒 (なかむらけん)、3.77、よかったと思われる

桂離宮のすぐ近く、中村軒 (なかむらけん)、3.77、

>中村軒の歴史
山陰街道にまだ二頭立ての馬車が走っていました明治の初め頃、初代中村由松がただ今の場所で 「饅頭屋」 を商わせていただいてから、丹波、丹後路への往来のお客様に「かつら饅頭」はこよなきお土産として珍重されてまいりました。
以来、今日まで、旧久邇宮家のご用を拝命したり、天皇、皇后両陛下へ献上の光栄に浴したリ、お客様の有難いごひいきを頂戴してまいりました。
現在も創業当時から守り続けている 「なつかしい昔の味、 あっさりした美味しさ」を基礎にお饅頭を作り続けております。
何とぞ、 愛顧下さいますようお願い申し上げます。

>登録商標 麦代餅(むぎてもち)
麦代餅は昔から、田植えどきの間食として供せられ、また、多忙な農家などでは日頃もこれが重宝がられました。
かつては、この一回分の間食が麦代餅二個でしたが、これを農作業の各田畑まで直接お届けし、農繁期も終わった半夏生の頃、その代金としてあらためて麦を頂戴しにあがったのです。
麦代餅二個につき約五合の割、いわゆる物々交換の名残でございます。このように、麦と交換いたしましたので、「麦代餅」の名が生まれました。
当店は昔も今も最高の原料を使用し、同じ製法を守り、販売いたしております。 どうぞご賞味下さい。

引用終わり、
スィーツについては、あまり評価が出来ないのであれなんだけど、
点数が点数だけに、さすがによかったと思われる。

2209、隆平そば、3.87、関西で一二、知ってる限り

前回無駄に桂離宮まで来たときは、予約でいっぱいだったかなんかで入れず、
今回も半分飽きられめていたけどうっかり入れた、隆平そば、3.87、

雰囲気は問答無用で抜群、お通し代わりの揚げそばは外れがない、

ミニセット昼のみ、¥3,100〜
ミニセットの内容
竹かご盛り合わせ、焙煎粗びきそば、そば茶角、お造り、胡麻豆腐
季節のお料理等
お蕎麦
季節の飯蒸し、香の物
デザート盛り合わせ

おすすめ飲み比べ900円、蕎麦味噌も嬉しい、

セットのかけと、

単品のせいろ、

季節の飯蒸し、香の物

蕎麦湯がでかい、のも、冷めづらいので嬉しい、

デザート盛り合わせ
これで3,100円は安い、

これはなんだろう?デザートなのか?

いずれにしろ、点数通り、これは関西で食べた蕎麦の中でも一二を争う店。
ちゃんとしっかり美味しい店はそれなりにあるわけだけど、一段階上って感じ、
それは蕎麦だけでのことではないんだけどさ。

2208、桂離宮、行っておいてよかった

2018/01/20(土)、世界遺産、桂離宮、

知る人は知る、宮内庁管轄の事前予約スポット、

京都だと、修学院離宮、京都迎賓館、

つまり、ちょっとふらっと、というわけにはいかないのです、

そして、ここには、それを知らんとふらっときて、

電車代の無駄遣いをし、すごすごと帰ったことがあったのでした。

ということで、10時に入り、

同日会を予約していた皆様40名程度と、

案内人と警備員の人とぞろぞろと見学、

写真が75枚ありまして、

選べばいいのだけど、

選ぶよりは、

このまま書いて、

飽きたところで、

やめる、

>桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。

>江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。

>総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。

>離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。

>江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。

>回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。

>また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。

>庭園には茶屋が配されている。

>現在は宮内庁京都事務所により管理されている。

>創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えてる。

>昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。

>概要

>桂離宮は京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置する。

>ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。

>川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かる。

>桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」といった)である桂殿が営まれていたという。

>また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。

>物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいる。

>この地は風流な観月の名所としても知られていた。

>桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。

>こうした地にある桂離宮には、観月のための装置という意味合いがある。

>それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった。

>桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。

>ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。

>作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。

>実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている。

>昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。

>タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。

>古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を

>「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した。

>桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 – 1629年)によって基礎が築かれた。

>智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。

>智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。

>本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。

>桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。

>書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 – 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。

>八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。

>第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。

>1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。

>そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。

>桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである。

>庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。

>池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。

>これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 – 1662年頃)にかけて順次建立されたものである。

>古書院の西には「御末所」と「臣下控所」、中書院の西には「旧役所」があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである。

>他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。

>古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない。

引用終わり、

まあ、なんだ、たしかに立派だし、

今思うに、行っておいてよかったなと、

強く思う。

あとちょっとなんだが、

飽きたので、終了。