2211、仙洞御所、京都仙洞御所、になりました

By | 2020年6月5日
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桂から京都市内へ移動、

この日は、相方の事前準備よろしく、

宮内庁管轄の完全予約制スポットのはしごだったのね、

ということで、仙洞御所、

あまり聞かない名前と思われる、

京都御苑にありまして、

というか、そういう意味では、京都御苑には、

この仙洞御所、京都御所、京都迎賓館と、

完全予約スポットが複数あることを再認識、

さて、相変わらず大量の写真なので、

>仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(太上天皇・太上法皇・上皇)の御所。

>仙洞とは本来仙人の住み処を指し、そこから転じて上皇・法皇の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。

>解説

>仙人とは中国で古くから信じられた理想的な人間像で、俗世を離れて深山に隠遁することから、退位した天皇の住まいの美称として用いられるようになった。

>貴人の住まいを「御所」ということから「仙洞御所」と呼ばれた。

>上皇・法皇は退位後、内裏から退去して仙洞御所に移るのを常とし、里内裏が多くそれにあてられた。

>仙洞御所はまた「院(いん)」とも呼ばれ、これも上皇・法皇の別称として使われた。

>仙洞御所には家政機関としての院庁が置かれたほか、白河上皇の時には近衛として北面武士のちに西面武士が設置された。

>京都仙洞御所

>現在、京都市上京区にある京都御苑内で、京都御所の南東に位置している。

>これは1627年(寛永4年)に京都新城の跡地に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は「桜町殿」という。

>東部には広い池を中心に庭園が広がっている。

>初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。

>仙洞御所の建築群は1854年(嘉永7年/安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年(慶応三年)以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備された。

>庭園の南東周辺が空地であったため京都迎賓館建設の声が上がった際には、その候補地のひとつにも挙がったが、結局別の場所に建設された。

>なお、仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている。

>前述のとおり京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れた。

>大正時代には大宮御所の御常御殿の内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整った。

>現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に「大宮御所」と呼び天皇・皇后の京都府への行幸啓(帰京)の際の滞在施設として使用されている。

>仙洞御所(大宮御所ふくむ)の地は、かつて聚楽第の後身として豊臣家の本邸「京都新城」のあった地であり、当時は太閤御所・太閤上京御屋敷などと呼ばれていた。

>豊臣秀吉が没した翌慶長4年9月に大坂から秀吉の正室・北政所(のちの高台院)が入り、居住した。

>彼女は寛永元年に没ししばらくは甥の木下利房が住したが、寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、幕府はこの地を仙洞御所と大宮御所の地として選び御所建設工事に着手した。

>このとき御所の規模構造について大坂城代から「皇居より大きくしないこと」などと細かな指示書が示されている。

>譲位の意向は徳川和子(のちの東福門院)の生んだ親王が夭折したためいったん撤回され、工事の進捗は緩慢になったと考えられるが、寛永6年11月天皇が突如譲位を決行すると、工事を再開、翌7年12月に上皇は新構の仙洞御所に移徙(わたまし)している。

>このとき多くの建物は二条城から寛永行幸の際に使用した建物を移築再利用している。

>阿古瀬淵は豊臣家邸宅庭園の遺構と伝える。

>1840年(天保11年)の光格上皇の崩御後は、退位し上皇となる天皇がいなかった事から、1869年(明治2年)の東京奠都に伴う東京への皇室や御所の移転を経た後も従来より単に「仙洞御所」と称されてきた。

>しかし、2019年(平成31年)4月30日、第125代天皇明仁が東京奠都後の天皇として初めて退位し、上皇となった。

>その上皇の御所としての「仙洞御所」の名称が東京(東京都内)にも必要となったことから、区別の為に「京都仙洞御所」と改称された。

ということで、なんとまあ、この写真の時と、

今では、名前が違っていたのでした。

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