2472、那智勝浦散策 no.5 那智山 青岸渡寺、西国三十三所第一番

By | 2021年2月23日
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那智大社のすぐ隣、

隣と言うかくっついている、那智山 青岸渡寺

神社とお寺が並んでいるのです、

>那智山青岸渡寺は、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が、永延2年(988)に御幸され、西国三十三ヶ所第一番札所として定めたとされ、多くの信者や参詣者が全国から訪れています。

>如意輪観世音像は、仁徳天皇の時代(4世紀の頃)、インドから那智に渡来した裸形上人が、那智滝の滝壺で見つけ、本尊として安置した言われています。

>如意輪観世音を祀る本堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しており、2004年7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。

>本堂後方には、那智の滝との調和が美しい朱色の三重の塔がそびえ立っており、必見のフォトスポットとなっています。

>熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としない。

>伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音菩薩を本尊として安置したという。

>後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末 – 7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音菩薩を納め、如意輪堂を建立したという。

>以上はあくまでも伝承であるが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。

>中世から近世にかけて隣接する熊野那智大社と一体化し、那智山熊野権現や那智権現と呼ばれ、全体で7寺36坊もの坊舎を有する神仏習合の修験道場であった。

>如意輪堂と称されたその堂舎は那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であった。

>花山法皇が三年間参篭し、当寺を第一番として西国三十三所観音を巡礼した。

>堂舎は織田信長の兵火にかかった後、天正18年(1590年)豊臣秀吉によって再建された。

>明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はせずにしておいた。

>ただ、仏像や仏具は補陀洛山寺などに移され、空堂とされた。

>しかし、1874年(明治7年)に古くからの信者らによって熊野那智大社から天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興した。

>寺号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。

そんなわけで、いろいろ訪れた、西国三十三か所の一番目でありまして、ずっと行きたいところでありました。

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