Author Archives: なおみ

2151、四国散策 no.83 西瀬戸自動車道

生憎写真が一枚しかないんだが、人生初めての西瀬戸自動車道であります、
なんのこっちゃということだが、まあ、しまなみ海道とよばれておりますね。

>西瀬戸自動車道(にしせとじどうしゃどう)は、本州四国連絡道路の3ルートのうち、西に位置する尾道・今治ルートを成す道路である。
広島県尾道市の尾道福山自動車道(国道2号松永道路)西瀬戸尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4 kmの高規格幹線道路(国道317号の自動車専用道路)である。本州四国連絡橋に本州四国連絡道路である西瀬戸自動車道を通しているという形をとっており、本州四国連絡高速道路が管理している。高速道路等ナンバリング(高速道路等路線番号)では尾道福山自動車道(松永道路)・今治小松自動車道とともに「E76」が割り振られている。
略称は西瀬戸道だが、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれることが多い。「しまなみ」の呼称は、本道路の開通後、広島県東部や愛媛県北部の複数の団体・企業等の名称に用いられている。なお、橋自体の名前は「瀬戸内海大橋」であるが、完成記念イベント『瀬戸内海大橋完成記念イベント「しまなみ海道’99」』を最後に殆ど使われなくなった。

引用終わり、
ということで、実は私このタイミングで、しまなみ海道というのが、本州四国連絡道路だということを知ったのでした。
しまなみ海道がなんなのか知らんまま、どっかの海岸沿いのドライブとかサイクリング道くらいに思っていたの。
もうちょっと言うと、本州四国連絡道路が3個あるとは思っていなかったというか。

そういえば、記憶が確かなら、まりが新婚旅行でサイクリングで渡ったような話を聞いた気がするが、
車で渡って思ったのは、かなりの距離なのでしんどそう、ということ以上に、
高くて風も強いから、単純に、高所恐怖症の俺には無理だな、と思いながら車を走らせたのでした。

2149、四国散策 no.81 重松飯店、3.59 サービスセットですいません

今治の名物、焼豚玉子飯

>今治焼豚玉子飯の歴史
今治焼豚玉子飯は約50年前、市内にあった中華料理店「五番閣」(閉店)
のまかない料理として生を受けました。
当時は、疲弊した調理人が手早く栄養を摂取する目的もあり、
半熟の目玉焼きと焼豚の切れ端に焼豚の煮汁をかけて食べていたそうです。
厨房での人気のあり、そのままメニュー化されました。(当時の名前は中国名)
その伝説の「五番閣」から独立した料理人がメニュー化した事で口コミとなり、
ソウルフードとなり、当時の男子中高生が中心に食べていたそうです。
現在では市内約60店舗ほどでメニュー化され、人気を博しています。
焼豚の厚さや部位、玉子、そしてタレの濃度など、各店舗特徴があります。
今治焼豚玉子飯は素早く提供できるようになっています。これは今治人の
気質に起因しています。イラチで(気が短い事)、料理が早く提供されないと
我慢できないのです。旨い・安い・ボリュームがある、は当たり前、
なおかつ早く提供されないとダメなのです。
そんな理由もあって、今治焼豚玉子飯はいたってシンプルです。
どんぶりにご飯をよそい、スライスした焼豚(店によって異なる)をのせる。
その上に半熟の目玉焼きをトッピングし、甘辛いタレをかけるだけ。
この間わずか数十秒。
今治焼豚玉子飯は今治人の気質から生まれたソウルフードなのです。

引用終わり、

を求め、地元の人の集う人気中華定食屋、重松飯店、

二人でサービスセット一つで申し訳ないんだけど、
満腹セット1,050円、ラーメン、焼豚玉子飯小、チャーハン小、サラダ、
見た目通りの味でございまして、特別美味しいってことではないんだけど、
人気なのはわかる。
まあ、相方が生卵を避けていたので、焼豚玉子飯小はほぼ一人で食べたわけだが、
たれが甘くて、個人的にはちょっと、でした。

いずれにしろ、二人でサービスセット一つを許してもらえる店は非常に嬉しい。
値段というよりも、いろいろ食べられるから。
もちろん、店で断ってから頼んでます。

2148、四国散策 no.80 今治城、城と言えば藤堂高虎

ふなやを後にし、今治城、

>関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。

>別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいいます。

>慶長7年(1602)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは同13年頃と推測されます。

>海水が引かれた広大な堀や、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城でした。
寛永12年(1635)より松平(久松)氏の居城となりました。

>明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣を残すのみとなりました。
昭和28年(1953)に県指定史跡となり、昭和55年(1980)以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せています。

引用終わり、
天守が復元されている城がどれだけあるのかしらんけど、
ここまでちゃんとした城なのに、今まで知らんかったのです。
非常にこじんまりとした、ただ四角の極めてシンプルな城なんだけど、
石垣、天守の高さ、そして「日本第一の海岸平城」の通り、場所がよく、使い勝手もよい。
さすが高虎。

2147、巨星堕つ no.8 志村けん、何故ショックなんだろう

まあ、ここまでのインパクトがあった巨星堕つも数年に一度であろうか。
その人の偉大さもさることながら、コロナってのがさ、
正直、結構なめてかかっていた自分も少なからず、なんというかびびっているところがある。

それはさておき、我々世代だと、8時だよと、ひょうきん族に分かれる時期、
ちょっとかわっていたというか、背伸びしたかった私はある頃を境にひょうきん族派になり、
8時だよは観てなくて、ドリフ大爆笑とバカ殿を、やっている時に他に観るのがなければ観る、
くらいなのりで、まあ、ぶっちゃけ志村けんとは相当な距離をおいて今に至っている。

にもかかわらず、というかなので、本当はこんなことを言う資格はないのだろうけど、
なんかショックが強い。別に今日という日がなく、元気に復帰したとしても、
志村けんを観ることはなかったと思うんだけどショックなのはなんなんだろうなぁ。
幼心に染み付いたものなんだろうか?

なもんで正直そこまで理解は出来ていないのだけど、
今のお笑いがこうなっているうち、彼の貢献ってのは大きいんだろうなぁとは思う。

ご冥福をお祈りいたします。

なんだけど、どうも違和感を感じるのは、訃報を受けてコメントを出している素人の人はさ、
私と同様、志村けんの最近なんて大して観てないんだからさ、
あんまり大げさに彼を誉めたり、悲しんだりする資格ないから黙っとけ、
とか思っちゃうのは、私がダメな人だからなんだろうか?

2146、親になる no.155 はじめての走る

>1歳半から2歳頃になると一人歩きが上達し小走りや後ずさり、
小さなジャンプができたり、少しの段差が超えられるようになったりします。
小走りをし始めたころは足に力が入り、つま先でちょこちょこ走りますが、
何度か走るうちに上手になり、足全体で走れるようになってきます。
まだ、バランスを崩したり、少しの段差で何度も転んでしまったりするので、
とがった石や釘がでているような場所は気を付けましょう。

引用終わり、

まあ、こないだ2歳になりましたので、走り始めたのは別に最近ってこともないんだけど、
ちゃんと走るなぁと改めて思ったもので。
ボールを蹴って、追っかけたりします。

2145、四国散策 no.79 ふなやの朝食

和朝食と

洋朝食があるのは嬉しいね、

和食
<ある日の御献立>
小鉢
焚き合せ
一夜干し
手作り豆腐
温度玉子
野菜サラダ
焼き海苔
盛り合せ 香の物
味噌汁
白御飯
果物
*お料理は、月毎の御献立でございます。

洋食
<ある日のメニュー>
ジュース
お飲み物(コーヒーor紅茶orミルク)
たまご料理と温野菜(ハムorベーコンorソーセージ)
サラダ(フレンチドレッシング)
フルーツ
パン3種
*お料理は、月毎のメニューでございます。

こうなってくると和朝食の方が手が込んでていいよな、間違いなく。

2144、四国散策 no.78 ふなやの庭、朝散歩

2017/12/15(金)、めずらしく、せっかくなので、宿ふなやの庭などを散歩する、

めずらしくというか、改めて庭を散歩する時間を取るほどの庭のある宿に泊まる機会など滅多にないということなんだろうが、

多くの著名人が泊った宿なので、逸話なども多々あり、

>漱石とふなや
「 はじめてのふなや泊りをしぐれけり 」
明治28年(1895年)、夏目漱石が松山中学校の英語教師として赴任中、かねてから楽しみにしていた鮒屋旅館(現在のふなや)に宿泊しました。
その喜びを素直に表現した句です。
その後、漱石と高浜虚子は鮒屋旅館でビフテキを食べました。

>その時の模様は虚子の「漱石氏と私」に描かれています。
この三十年の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋(ふなや)で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下もとにあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。
白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。
私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛かみこなして大概嚥下してしまった。
高浜虚子 「漱石氏と私」

>子規とふなや
「 亭ところ々渓に橋ある紅葉哉 」
明治28年(1895年)、病気のために松山に帰郷した正岡子規は、親友であった夏目漱石の下宿で静養することになります。
そして、明治28年(1895年)10月6日、子規が漱石と散策の折に花月亭(現在のふなや詠風庭)近辺で詠んだのが、この句です。
ふなやではこの句を頂戴し、詠風庭を見下ろしながら本館と南館をつなぐ渡り廊下を、もみじ橋と命名しました。

>虚子とふなや
「 ふるさとに花の山あり温泉あり 」
高浜虚子は明治より度々ふなやに来館しています。
昭和18年(1943年)3月26日、太平洋戦争中に松山に帰郷した虚子が、ふなやに泊まった際に詠んだ句です。
戦時中ではありましたが、ふるさとに帰ったことの喜びが伝わってくる句です。

>山頭火とふなや
「 朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし 」「 ほんにあたゝかく人も旅もお正月 」
「朝湯~」は、種田山頭火にとって残された贅沢の一つと書き残しており、温泉につかる心地よさが伝わってきます。
「ほんに~」は、昭和14年(1939年)に来松して初めての正月を詠んだ句です。
旅の終着地となった「一草庵」で、たくさんの人のぬくもりに包まれていたのでしょう。

>渋沢栄一のふなや宿泊
新紙幣一万円札の肖像画に採用された渋沢栄一氏。ふなやに宿泊された折の逸話をご紹介します。

>初めての愛媛で鮒屋旅館に宿泊
大正4年(1915年)9月29日 75歳の渋沢栄一は、第一銀行広島及び熊本支店開設披露その他のため、東京を発し、神戸・松山・広島・熊本に赴き、帰途大阪・京都に立寄り、10月11日に帰京しました。
宇和島出身の実業家山下亀三郎(やました・かめさぶろう、1867-1944)からの懇請を受け、初めて愛媛を訪れました。

>9月30日夕刻、松山に到着した栄一は官民合同歓迎会に出席して鮒屋旅館(現在のふなや)に投宿。依頼を受けたのか、宿では入浴後も深夜まで揮毫(きごう)しました。
この際、ふなやにも、自身と関係が深い養蚕に関する漢詩の書を残しております。

>翌10月1日、栄一は8時40分に宿を発ち、道後公園を経て松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高校)に赴きました。同校では図書室を一覧、記念植樹を行い、校庭で生徒に対して訓話をしました。

そんなわけで、この立派な庭は、
>詠風庭(えいふうてい)
園内に自然の川が流れる
1,500坪の広大な自然庭園。
そこには約200種類の植物が生育し、
四季折々の姿をお楽しみいただけます。
古より多くの方に愛されてきたこの庭園は、
今も昔も変わらぬ情趣を留め、
心癒される空間となっています。

引用終わり、
でした。

2144、四国散策 no.78 ふなやの夕食

宿に戻り温泉後、19時からふなやの夕食、

マタニティプランってことで、妊婦用のメニューと通常メニューと、
いろいろ楽しめるのは結構なことです、

刺身があるから通常メニュー?

刺身がないのでマタニティプランメニュー?

マタニティ用の煮物?

通常は栄螺など、

〆、

フルーツも立派だや、

部屋に戻り、この日のお土産。

それはさておき、さすがに素敵な夕食であったと記憶する。

2143、四国散策 no.77 夜の道後温泉

17:30なので夜ってこともないけど、夜。
なんかこの写真はシャッターが目立つが、全然賑わっております。

駅にある坊っちゃん列車、

こないだの昼間乗ったのは松山市駅、こちらは道後温泉駅なので違うのです、

駅前のからくり時計、

の脇にある足湯、

もちろん無料、

みかんビールだって飲んじゃうさ、

18時になったので、

人だかりも多いなか、

からくりスタート、

18:04にはがらん、